或る日、夕方、家に帰ると猫がいた。
玄関のドアを開いた瞬間、あの独特の臭い匂いがまとわりついてきた。
どこに隠れているのかと耳を澄ます。か細い鳴き声が微かに聞こえてきた。
耳を澄まし、匂いを辿って居間に入るとそいつはいた。
まだ仔猫だった。
見知らぬ場所に無理矢理に連れてこられたせいか、ビクビク震え、身を縮めて丸くなり、怯えた目だけを機敏にキョロキョロさせている。
とても哀れな姿だ。
しかし、私はそんな仔猫に同情はしない。
なぜなら私は猫が嫌いだから。
私の両親も大の猫嫌いだった。そして祖父母も皆んな猫嫌いだった。
なのにうちの娘や妻ときたら、無防備にもおどおどしている仔猫に触れながら、かわいー!と、そのたどたどしい仕種一つ一つをそんな曖昧な言葉で片づけてしまう。いくら娘や妻が愛らしいといおうが、私は嫌いなものは嫌いで、愛らしい仕種に一瞬たりとも気持ちが揺らぐことはなかった。
ペットショップで買われてきたソレは、一応家族ということになるわけだが、私は絶対にソレを可愛がることはない。自信がある。だから情も移ることもない。ソレが死んだところで心を傷めることもない。
築一五年の我が家。
現在私は一戸建てに住んでいる。この家に住みたいといいだしたのは妻だった。私は何処に住みたい、どんな家に住んでみたいという願望は、妻ほど強くなかった。
私は市営団地で生まれ、そして育った。
両親が生まれ育ったのもそこで、祖父母も皆んなそうだった。
皆んなそこでの生活を好いていた。団地での生活はとても快適だ。私はそこ以外の生活をほとんど知らずに育った。両親は祖父母が亡くなった今でも、昔から住み慣れたそこに住んでいた。
団地は一つ一つの部屋は確かに狭いが、その建物、敷地は一戸建てとは比べ物にならないくらい広大だ。私はその広い空間が至る所に空いているそこが好きだった。子供のころは隣り近所の悪ガキ共と、いつも広い敷地内を夕方遅くまで駆け回ったものだ。瞼を閉じればあのころの懐かしい思い出が、昨日のように浮かび上がってくる。
思えば今までこうして生き長らえてこれたのも、そこで培われた知識のお陰だ。すべて周りの大人や悪ガキ共と共存することで、自然に学んでいったように思う。もちろん両親、それに祖父母には、私をここまで大きくしてくれたことへの感謝の気持ちを忘れたことはない。私を取り巻く環境そのものが、私を成長させてくれたのだと思えるのも、今現在私が一戸建てで生活しているから余計にそう思うのだろう。
幼なじみの大半は今でも住み慣れた団地に住んでいる。最近は実家に寄ったときに、軽く挨拶を交わす程度の濃度の薄い付き合いになってしまったが、それでも皆んな昔と何ら変わらぬ接し方をしてくれる。彼らもまた私を家族の一員と認めているからだろう。
団地だと敷地内に生活に必要なすべてが揃ってるから楽でいいんだよ、と皆んな口を揃えていうが確かにそうだ。スーパーマーケットやコンビニが敷地内にあるのは、家庭を仕事場にしている主婦たちには有り難いに違いない。特に子育てに追われ、時間にゆとりを持てない時期は、遠方まで走って食料を調達するのは不便極まりない。
団地は社会の中にあって、更に小さな社会を築いている。
だからそこで生活するとなると、様々な規制が強いられることになる。不便に感じる物もあれば、感謝に値する物もある。
ペット禁止。
規則の中でもこのペット禁止というのは、私には有り難かった。
私はこの年になるまで、ペットと親しんだことはない。それだけにペットへの接し方は不慣れで煩わしい。高齢の両親がこの家に引っ越してこない理由の一つがこれだった。
「だっておまえ、一戸建てだろ。今はまだ孫も小さいけどその内に友達ができ、その友達の家でペットでも飼っててみろ。欲しいっていいだすのに決まってるだろ。そうなったらどうするんだ。父さん、犬はともかく猫は生理的にダメなんだよ。母さんもそう。そんなことおまえもよく知ってるだろ。ここはペットを飼えないから快適に暮らせるんじゃないか」
父も母もペットが放つ体臭を毛嫌いした。犬は兎も角、猫の臭いには異常なくらい過敏に反応したものだ。私も猫の臭いはちょっと嗅ぐだけで、全身に鳥肌が立つほど寒気を感じてしまう。猫の体臭もさることながら、あのエサの臭いには耐えられないものがあった。
最近ではキャットフードとかいうソレ専用の食品も市販されてるそうだが、祖父の子供のころは、簡単に屋根裏に忍び込んでネズミを狩っていたらしい。昔、眠りに就く前によく祖父が話してくれたソレにまつわるおぞましい話は、猫について何も知らなかった幼い私を強烈に震え上がらせた。その光景を思い描くだけで、全身の体毛が逆立ち、皮膚が瞬時に縮こまる。
最近はペットの猫は、もう狩りはしなくなったと聞く。しかし腹を空かせた野良猫は、今も昔同様に狩りをしていると噂で聞いたことがある。
私はそんな野蛮な行為を良心の呵責もなく、平然とやってのける無神経な猫が大嫌いだ。今まで猫に噛み付かれたり、追い回された恐ろしい経験はない。恐らく祖父から聞いた話は、先入観となって無邪気な心の奥深いところに猫嫌いの種を植え付けてしまったのだろう。
「パパ、ほら見て! この子、すごくかわいーわよ」
三歳を迎えたばかりの愛娘が、そっぽを向く私の小袖を引っ張って、ソレに微笑みかけている。
私は無邪気な娘に促されて止むなくソレに視線を送った。
親元を無理矢理離され、知らない場所に連れてこられたことにおどおどしている姿に、一瞬幼い娘の姿が重なった。
私はその瞬間猫嫌いにもかかわらず、迂闊にも哀れな眼差しを床に這いつくばったソレに向けてしまったのだ。不安におののくソレは小刻みに震えていた。
そのまましばらく娘と一緒に見ていると、床に転がっていたスーパーボールを見つけて、前足で転がしてあっち行ったりこっち行ったりとじゃれはじめた。
「かわいー!」
愛らしい笑みを浮かべた娘の優しく弾んだ声が、ソレに哀れみの眼差しを向けた私に鞭を打った。
無邪気で無知な娘の無防備さが、私に怒りを招いたのだ。途端に私はいつもの猫嫌いに戻っていた。猫の恐ろしさを知らない娘に怒りの感情が湧き起こる。正直、私には仔猫のボールを転がしている姿のどこがかわいいのか理解できないでいた。
「でもなー、こいつもすぐに大きくなって今に悪さするようになるんだぞ」
私は心に密かに充満した怒りを制して、優しく娘に諭しかけた。
「そりゃそうだよ。だって、猫だもん」
私は娘の言葉に思わずドキリとし、言葉を飲み込んでしまった。
娘はまるで猫が何たるかということを知っているかのような口振りで、すらりと言い退けたことに大きな危機感を抱いたからだ。
私は優しい笑顔を保ったまま、ソレを眺める娘を呆然と見つめ、彼女の将来を懸念しその無防備さに危惧した。
この子は何処で猫を知ったというのだろう。私が知っているかぎりでは、猫に遭遇したことは一度もないはずだ。なのに、なぜ?
妻と外出したとき、そのとき知ったというのか?
いや、それはないはずだ。元来妻も私同様に生理的に猫は嫌いなはず。猫の姿を見るのも嫌なはずだ。
しかし、娘に猫を教えてやれたのは妻以外にはいない。私の両親も、妻の両親も高齢のため、娘が生まれたころからはほとんど外出しない生活を送っている。彼らが嫌いな猫の話を娘にするとは思えない。ならば、やはり娘は妻と外出したとき猫の姿を見つけて、そのとき教えてもらったのかもしれないな。多分そうだ。
それにしてもこの子が猫がどういう生き物なのか何も知らないというのは危険だ。しかし妻も妻だ! この子が猫に興味を示したときに、なぜもっと適切なことを教えてやらなかったのだろう。お嬢様育ちの彼女はおおらかなところはとても良いのだが、能天気で少し常識に欠けているところは宜しくない。
今はまだ仔猫だからいいものを、大きくなったときには取り返しのつかない事態を招くかもしれないというのに。私は不意に湧き起こった苛立ちに妻を呼びつけた。
「おい。どういうことだ! どうしてこの子が猫を知ってたんだ。猫に近づけたんだな! あれほど近づけるなといっておいたのに。私が大の猫嫌いなのは知ってるはずじゃないか! 君も猫が大の苦手なのに、一体何を考えてるんだ!」
「だってー」
「だってじゃない! 仔猫なんて半年もしないうちに大きくなるんだぞ。この子があの鋭い爪で引っかかれたらどうするんだ! そこからバイ菌が入って病気になり、取り返しのつかないことになったらどうする!」
私はついつい自分の興奮した声に更に煽られて、いつになく大きな声で怒鳴っていた。その異様な私に娘は驚き、妻に駆け寄って泣きはじめた。
「ほら、泣いちゃったじゃない。そんなに大声ださなくてもいいのに。大丈夫よ、この子にもちゃんといい聞かせてるから。猫は遠くで離れて見るようになさいって」
「そんなこといったって君。猫は犬のようにノロマじゃないんだぞ! 壁だって垂直に登ってくるし、通れそうな所は何処だって頭を通してくるんだからね。君は知らないんだよ。本当の猫の恐ろしさを」
娘は妻の背後で隠れるように泣きつづけた。
「私だって猫の恐ろしさくらい知ってるわよ!」
「何を知ってるというんだ! いってみたまえ!」
感情はなるべく抑えたかったが、妻のふてくされた居直りに触発されて再び怒鳴ってしまった。
「猫は獰猛だってことよ! つい先日も隣り町で野良猫に喉元を噛み切られて赤ちゃんが亡くなったって」
「ああ、それなら私も知ってる。実家の近くだ。昔私が住んでた団地の向かいの棟に住んでた方のお子さんらしい。御主人は私よりも随分年下だから一緒に遊んだことはないが。一戸建てに引っ越して一週間も経ってなかったそうじゃないか」
「念願のマイホームを手に入れた矢先の、絶対にあってはならない悲しい出来事だったのよ」
妻は泣きじゃくる娘を抱き寄せて、哀れな表情を浮かべて呟いた。
亡き子を思う母親とは、常にそのような表情でいるのではないかとさえ思える寂しい顔だった。
「まあな……。
一戸建てには住めばそれはそれで、それなりのリスクがあるんだ。君の実家は一戸建てだったからわかってるものだと思ってたのにな。
一戸建ての生活に慣れていた君には、猫は飼っても大丈夫だという心の透きがあったんじゃないのか。慣れが心に無防備を招いたんだよ」
「実家には昔猫がいたけど、猫の被害なんて一度もなかったからね。そうね、この子だってまだまだ小さいんだもんね。噛み付かれでもして場所が場所なら、ほんと命を落としちゃうかもしれないんだよね」
私は反省の色を露に見せた妻の肩をポンと軽く叩いて、その日から我が家の居候となった仔猫を残して部屋を出た。
我が家に仔猫が居候するようになって二週間が過ぎた。
家の中は仔猫とキャットフード、それに加えて糞の匂いが強烈に鼻を衝く。更にはその匂いを消そうと、防臭スプレーが朝から晩までひっきりなしに振り撒かれる有り様だ。
ソイツがやってきたお陰で、私は防臭スプレーの脳を犯しそうな厭な匂いにも悩まされるようになっていた。
「しかし、この匂いは堪らんなー。どうにかならんのか」
日に何度となく私はこんな小言を口にするようにもなった。防臭スプレーの匂いが身体にこびりついているのが自分でもわかる。自分ですらわかるのだから、他の者なら尚更その匂いは堪らないだろう。
外出したときなどすれ違い様に、顔を顰めて過ぎ去る者もいる。先日もそうだった。仕事仲間たちと休憩中に談笑しているときのこと。私の隣りにいた男が、
「おい、何か匂わないか?」
と、突然顔を顰めた。
私たちは鼻をクンクンさせて、辺りの匂いを嗅いだ。
しかし、これといった変な匂いは感じない。私は何も匂わなかったので、その場に黙っていた。すると別の男が、
「確かに匂う! この匂いは」
と、いってから、またクンクン鼻をさせて匂いを嗅ぎはじめ、遂に大声で、
「猫の匂いだ!」
と、悲鳴を上げた。
男が猫と叫んだ途端、その場にいた者たちの顔から一斉に血の気が退き、身をかがめて慎重に辺りを見渡しはじめた。生憎その場にいた連中は、揃いも揃って大の猫嫌いだった。
「近くにいるんじゃないか?」
「いや、近くに気配は感じられない」
「じゃあ、この匂いは一体どこから」
目を瞑りクンクン鼻をさせながら、一同が匂いの発生源を探り出そうと嗅覚に神経を集中させた。そして、じわりじわりとその匂いの元に歩み寄っていった。
いつの間にか私は彼らに取り囲まれていた。
皆んなまだ目を瞑って鼻だけをヒクヒクさせている。そして、「ここだ!」と誰かが叫んで、一斉に血走った目を開いた。
その時の私は惨めでならなかった。
自分に猫の匂いが染み付いていることに全然気づかなかったからだ。防臭スプレーを身体に振り付けていたので、ソイツの匂いは消されているものだと思っていた。安易に考えていた私が馬鹿だった。私は自分のこの浅墓さを心底怨んだ。
「ええ! おまえ、家で猫飼ってんのぉ! 俺、ほんとにダメなんだよね。ソイツの匂いを嗅ぐだけで吐き気を催すんだ」
「申し訳ない」
「俺たちがダメなの知ってて、わざと匂いつけてきたんじゃないのか? 信じられないね」
「すまん。そんなつもりはなかったんだ。今度からもっとちゃんと気をつけるよ」
「猫飼ってんならもうお邪魔できないな」
「いや、猫といってもまだ仔猫なんだ。噛み付いたり、引っ掻いたりはしない。ちゃんと厳しく躾されてるから。皆んなが心配するようなことはないよ。だから、そんなこといわず、いつでもきてくれよ」
「いや、やめとくよ」
「そんなこといわないでくれ」
「生理的に皆んなダメなんだ。おまえだってそうじゃなかったっけ? なのによく平気でいられるよな」
楽しい時間のはずが、最悪のものになってしまった。
あの日以来、皆んなは私を意識的に遠ざけるようになった。私はたった猫一匹のお陰で、友人を失う破目になってしまったのだ。
体毛の一本一本にまで猫の匂いが染み付いている。それはあたかも体毛の一本一本に銀蝿の卵を括り付けているかのようだ。自分の体臭に混ざって、猫の匂いを嗅ぎ取ったときなど、全身を孵化したばかりの蛆が這い廻っているように思えて、自分の身体にもかかわらず切り刻んで捨ててしまいたい衝動に駆られる。
私は不意に狂気に理性を失いそうになる自分に恐怖を抱いた。今はまだ正気を取り戻すのも簡単だ。しかし、日を追うごとに私は私自身のこの猫の匂いが染み付いた肉体に嫌悪感を募らせている。自分でこの狂った衝動を振り払うことができるのも、そう長くは保たないと思われた。
私は救いを求めて妻に縋り付いた。
「アレが死ぬまでこの匂いは我慢しなければならないのか」
「仕方ないわよ」
なんともやりきれない私の嘆きに、妻の言葉が追い討ちをかけた。
「仕方ない、か……。
そうだよな。アレがここにいる以上は仕方ないんだよな」
私は肩を落とし、うなだれたまま仔猫を見やった。
ソイツをこの家から追い払えば私はもう苦しまなくてすむ。簡単なことだった。しかしそんな簡単なことですらもうできないくらい、私は精神的に追いつめられていた。
私は生きる屍として、この先猫が死に絶えるまで我慢して生きなければならないのだ。そんな私とは対照的にアイツときたら、大分我が家にも慣れたらしく自由気ままに部屋の中を駆けずり回っていた。
「まったく気楽でいいものだ。私がこんなに苦しんでいるというのに」
ソイツを眺めているとき、不意に何処からともなく殺意が顔を覗かせてくる。しかし、その殺意の矛先はソイツにではなく、常に私自身に向けられていた。
「気楽って?」
妻が不思議な顔で訊ねてきた。
「いや、アイツは食い物は自分で手に入れなくてすむだろ。餌はいつも用意されてるんだ。だが私たちはそうじゃない。誰かが用意してくれることはないだろ。食うためには必死に働かなくてはならない。家族を飢え死にさせないために、社会の中で必死に戦わなければならないじゃないか」
「そうね」
「アイツは何もしなくていいんだよ。気ままでいい身分だ。犬と違い、自分のしたいように散歩も自由だ。まったく羨ましい身分だよ」
私は私自らが自分に向けた殺意を追い払うかのように愚痴った。
生きるために、家族を養うために毎日懸命に駆けずり回る私たちとは対照的に、何一つ苦労なしに食事にありつける猫が憎たらしい。しかしそんな風に妻の手前仔猫を蔑んでみたものの、殺意は一向にソイツには向いてはくれなかった。
私には勇気がなかった。ソイツを追い払う勇気もなく、殺害する勇気は尚のことない。それどころか認めたくはないものの、仔猫のような気楽で自由な生き方を望んでいる。
「猫はいいわよね」
妻がぼそりとため息と一緒に呟いた。
「君がもし猫だったらどうなんだろうな」
「どうって?」
妻も猫の生活に羨望を抱いていたのだろう。返ってきた言葉に躊躇いがあった。私はそんな彼女に絶対にありえない空想を描いてみた。
「私は猫が嫌いだ。もし君が猫だったら、やはり君には近づかないだろうな。いくら君だったとしても、猫だもんな」
私は彼女を見ないで、仔猫に視線を落としていた。
「私が猫なら、私はあなたに近寄っていくでしょうね。どんなにあなたに嫌がられても。それでも最後まで執拗にあなたを追い回すだろうな」
「最後まで?」
私は妻の言葉の意味を考えた。
「最後までって、私の猫嫌いがなくなるときまでってことかい?」
「そんなのいつになるかわからないじゃない。頑固なあなたから猫嫌いがなくなるなんて、それはこの先永遠に待っても絶対にないわ」
妻の優しい囁きは私を納得させるものだった。
「そうだな。私の猫嫌いが治るわけないよな」
妻は私に微笑みかけた。猫になった妻は私をオモチャにして弄び、恐怖で狂っていく様子を楽しみながら、最期は喉元にその鋭い牙を突き刺すのだろう。私の抵抗は彼女には届かないのだ。
我が家にアイツがきて二ヶ月が過ぎた。
相変わらずアイツに愛情を見出すことはなかった。
それもそのはず、私の猫嫌いは以前に増して膨れ上がっていた。アイツがきて以来、私は不眠症で毎日気だるさに苦しめられるようになった。
新しい環境で二ヶ月も生活すれば、何処に何があって、家族がどのような生活リズムを送っているのか把握したのだろう。アイツは誰もが寝静まった夜中に盛んに行動するようになった。誰にも気づかれないように、家の中を巡回するのだ。静かに、絶対に足音を立てないように、その四本の脚の神経をピンと張り詰めて。しかし、いくらアイツが注意を払ったところで、私がアイツの居場所を見失うことはない。まだ仔猫のアイツは自分の身体が猫の匂いを絶え間なく放出していることに気づいていないらしい。
たとえアイツが柔軟で身軽だとしても、けっして私たちの寝室にまで入ってくることはできなかった。しかし、ベニヤ板で仕切ったすぐ向こう側にアイツがいるのかと思うと、無意識に全身の毛が逆立った。
この一週間くらい前から、私の体調を心配して、妻は深夜私が眠りに就くまで起きてくれていた。私がようやく眠りに就くのは日の出間近だった。彼女にはすまないという気持ちで一杯だ。同時に惨めな姿を家族に晒した自分が不甲斐なくて哀しい。もしも私が猫が平気な体質で生まれていたなら、どんなに平和な日々を送れていただろう。時にそんな惨めな妄想を思い描くこともある。だがそれは所詮無理な話。私の身体には先祖代々受け継がれた猫嫌いのDNAが、全身の細胞の一つ一つに漏れなく組み込まれているのだから。妻や娘は女性特有の母性愛の目でアイツを見ることができたが、私にはどうしてもそれはできなかった。
「眠れそう?」
仔猫の足音に聞き耳を立てて、息を潜める私に妻が優しく囁いた。
「いや。板切れ一枚隔てた向こうにアイツがいると思うとな、どうしても気になって神経を休めることができない」
「最近食欲もあまりないみたいだし、ほんと大丈夫かしら?」
「食べてはいないけど、栄養は足りてると思うから心配ないよ」
妻にこれ以上余計な気を遣わせたくなかった。確かに妻にいわれなくともアイツがきてからというもの食欲はめっきりなくなっていた。その分栄養剤で補給していたがやはり体力は日に日に衰えを見せていた。
一体いつまでこんな生活がつづくのだろう。つい二ヶ月前の何気ない日常がとても幸せな日々に思え、無意識にそんな言葉を漏らしていた。恐らく私の絶望に満ちた声は傍にいる妻にはより一層辛いものに聞こえていたに違いない。
私は黙って文句一ついわず、弱音も絶対に吐かずに献身的に尽くしてくれる彼女が不憫に思えてならなかった。本来ならば私の方が妻を励まし、労わなければならないというのに、私は妻に甘えるばかりでついつい弱音を漏らしてしまうこともあるのだ。すべてにおいて私には後悔が残った。
マイホーム。
一戸建てに住むのは団地で生活したことのない妻の要望だった。
妻は閑静な住宅街に古くから佇む小洒落た洋館で生まれ、そして育った。その洋館にはもう何代も前から住み、その地域では誰もが知っている御嬢様だった。
彼女との出会いは偶然だった。今でもあの日のことはよく憶えている。
当時、私は自分のテリトリーの狭さに失望し、自暴自棄になっていた。そんな私は或る日、意を決して独り旅に出ることにした。
住み慣れた故郷から姿を消したのは、梅雨がようやく明けた日の夜明け前だったと思う。
団地を出るときは振り返らなかった。振り返るとそこに、仲間や家族が一列に並んで、旅立つ私を見送ってそうな気がしたからだ。
私の独り旅は集団就職で故郷を去るような涙を期待するものではなく、自由気ままなものだった。でも、団地から少し離れた自販機の陰に隠れて振り返ってみた。一瞬、別れを惜しんで両目一杯に涙を浮かべた仲間たちと家族の手を振る姿が見えたような気がした。驚きだった。私は一瞬目を逸らしてすぐにまた見た。しかし、そこにはもう仲間たちの姿はなかった。熱い涙が両目から零れてきた。
私は幻を見ていたようだ。私は意識的に拒んでいたものの、本心では仲間たちに見送られることを望んでいた。誰かに気づいてもらいたかったに違いない。だから涙が流れてきたのだ。
まだまだ鋭利な刃物のように尖っていた私には、素直にそれを受け止めることはできなかった。私はその時自分のテリトリーが何であるのか明白になった気がした。仲間や家族がすぐ近くにいて、困ったことがあればすぐに頼ることができるそんな微温湯のような環境が、私の心に居座るかぎり成長はないと感じた。何をしなければならないのか漠然とだったが、不確かな形となって見えはじめたように思った。
私は踵を返してまっしぐらに見知らぬ土地に向かった。行き先は何処でもよかった。
どのくらいの町を転々としたのか忘れたけど、何処までもひたすらに走った。腹が減ったときは何でも胃に詰め込んだ。飽食の世の中で、食料に欠くことはなかった。残飯を口にするのに抵抗はなかった。都市の繁華街の路地裏で、ホームレスと一緒にゴミ箱をあさったことも何度もあった。まったく手をつけてない料理が、そっくりそのままの形で捨てられていることもしばしばだった。家では食べたことがないようなゴージャスな料理もよく口にした。都会は違う。故郷の田舎で捨てられる残飯とは天と地ほどの差があった。
旅のあいだ、よく将来のことを考えた。都会は仕事に溢れている。仕事がある所に人は寄る。当たり前だが、私は都会のゴミ箱を開いてみるまで、そんな当たり前のことを考えたことはなかった。旅に出てどれくらいの月日が過ぎたのかわからないが、都会と田舎の良いところと悪いところを存分に味わった私は、次第に足先が故郷に向きなおしたことに気づいた。
両親には置き手紙すら残してこなかった。さぞかし心配しているだろう。突然姿を晦ました私を探して、仲間たちに私の行方を執拗に問い詰めたに違いない。だが、私は仲間にも何も知らせてなかった。両親は落胆し、その場に泣き崩れたに違いない。容易にその光景が想像できた。私は旅をつづける中で、一度だって実家に便りを出したことはなかった。多分、家族も仲間たちも私はもう亡くなったと考えたに違いない。
私は社会勉強を外の世界に求めた代わりに、私を生んだ故郷にその存在を消してしまったのだ。しかし、私は自分でも気づかないうちに、故郷に早く自分の存在を取り戻したいという思いはじめていた。望郷の念は日に日に募っていった。
気がつくと私は故郷のすぐ隣り町まで帰っていた。いつの間に帰ってきていたのか、今振り返ってみても空白の記憶でしかない。辿り着いたのはとても静かな住宅街だった。旅立ったときと同じく、夜明け前の静寂さが街全体を支配していた。
故郷のすぐ近くの町まで辿り着いた喜びのせいか、私の心は浮かれていた。高い所に登れば、あの懐かしい故郷の街並みが見えると思った。私は強い衝動に駆られ、高い建物を探した。どうやってそこまで登ったのか記憶がないが、私は三階建ての古い洋館の屋根によじ登っていた。
東の空が微かに白さを帯びはじめ、ゆっくりと夜の闇が解けて街並みが露になっていく光景はとても幻想的だった。私は辺りを一望した。どうやら無意識にとった行動は正解だったようだ。隣りの家の二階の屋根に、私をちょこんと屋根の上に載せている陰が映っていた。その住宅街で三階建ての建物はそこだけだった。それより高い建物は何処を見渡してもなかった。
朝日は次第に空を青く染め、遠く先に故郷の街並みが微かに見えたとき、私は屋根の上に登っていることも忘れてはしゃいで何度もジャンプし、心に満ちたぎる喜びを全身の躍動する筋肉で表現していた。心にじわりと広がる暖かい故郷の思い出が、朝日が夜中に冷え切った大気をにわかに暖めるよりも早く、私の全身に熱い血を流した。そのときだった。
「そこで何してるの!」
不意に背後から声がした。私は若い女性の声に驚きそのまま真っ逆様に地面へとすべり落ちてしまった。
目が覚めたとき、私は柔らかいベッドの上に横たわっていた。ベッドの柔らかい感触など野宿に慣れていた私の身体には、返って不快に感じられた。
「目覚めたようね。どう?痛む?」
若い女性に優しく訊ねられた。彼女の質問に応える暇を許さず、感情が思考を支配した。
美しい。タイプだ。
「まだどこか痛むのね?」
「いえ。どこも」
クールに応えた。
気取ることに神経を集中させていたため、そう応えるのが精一杯だったが実際何処も痛みはなかった。
彼女との偶然な出会いがなければ、私は今こうして不眠症に悩まされることもなく、実家の団地で鼾を掻いてぐっすり眠っていたかもしれない。
奇妙な出会いを経て、私たちは自然に心惹かれていった。彼女にプロポーズしたのは、出会いから三年後のことだった。
自然な成り行きで結婚した。同時に新居を構えた。中古物件だったが妻は大いに満足してくれた。結婚して二年後に娘を得た。平穏な日々がゆっくりと私たちの歴史に刻まれていった。
ずっとそうなるものだと思っていた。
しかし、未来は予想もしない方向に向きを変えてしまった。
たった一匹の仔猫が現れたことで、私たち家族の未来はぼろぼろと崩れはじめた。
「あなたの体調が良くなるなら、ここを手放して、御実家で同居させて頂きましょうか」
我が家に猫が居座って四ヶ月が過ぎた。
アイツは親猫と見間違えるほどに大きくなった。アレの成長に比例して、私の肉体は衰えていった。不眠症は改善されず、毎日が虚ろに過ぎていく。体調を崩して以来、仕事もできないでいた。家計は切迫し、働けない私に代わり数週間前から妻が外に出るようになった。
妻が留守のあいだ、私は三歳の愛娘と一緒に部屋の隅でひっそりと身体を丸めて横たわっている。栄養剤の容器は加速的に軽くなり、少し振っただけで錠剤が容器に跳ね当たる軽快な音がした。
妻は朝昼晩と三度数種類の栄養剤を用意してくれている。残念なことにもう何週間も前から、私は妻の料理を一口も飲み込めないほどに衰えていた。
「パパ、大丈夫?」
娘の労りの言葉が身に染みて辛い。
「大丈夫だよ」
健気な娘にはそう返したものの、大丈夫でないのは明らかだった。
体重はどれくらい減ったのだろう。鏡に映つる私の顔は病に侵され、齢幾ばくもないものに見える。頬はこけ、顔からは血色が退き、目の窪みが骸骨を浮き上がらせている。
私はこのまま体力が回復するのを待たず死んでしまうのではないか。弱音を吐くわけではないが、素直にそう思えた。
死神の足音がこのところ昼夜を問わず耳元にこだましてくる。
その足音はけっして大きくなく、意図的に音を消してやってくる。寝室の壁の向こう側にやってくると静かに立ち止まり、一呼吸おいて狂ったように鋭く尖った爪を薄いベニヤ板に立てて、ガリガリほじくりはじめた。死神はもうすぐそこまできていた。
「パパ、わたし恐い!」
ベニヤ板を伝って響き渡る鋸を引くような強弱のついた振動音。軽い地震のような振動を伴って部屋全体に響き渡るその音は、幼い娘の鼓膜を容赦なく恐怖で襲った。横たわる私に、身を丸めて縋り寄る娘は震え止まない。私たち親子は死神がしびれを切らせてその場を立ち去るまで、じっと息を潜めて耐えなければならなかった。
地獄になった。
かつて私が未来に描いた幸せなライフスタイルは幻想でしかなかったのだろうか。アイツがきてからの生活は、私たち親子にとって地獄でしかなかった。
先日、昼間久々にぐっすりと眠りに就いたとき、妻は私の実家と彼女の実家に出向いて今後の生活について両親たちと話し合ったそうだ。私の両親も義父さんたちも実家での同居を歓迎してくれたという。同居に私は抵抗はない。それは妻も同じ意見だった。娘は祖父母との生活を大層喜ぶに違いない。
決断の時がきたのかもしれない。妻が仕事から帰ったら話そう。私の決断に妻も喜んでくれるはずだ。私は泣き疲れて眠ってしまった娘を抱き寄せて、妻の帰りを待って眠りに就いた。
どれくらい眠れたのだろう。鋸を引くような不快な音で、ハッと目を覚ました。娘はまだぐっすり眠っている。部屋に射し込む陽射しの帯が見えないということは、どうやら日が暮れたようだ。私はまどろみの中、まだ完全に目覚めきらない頭で、今その時に思いを巡らせていた。
もう夜なのか。随分眠った。このところ生活リズムは完全に妻のそれとは逆転している。
妻は私の看護と、娘の子育てで手が一杯だというのに、働けない私に代わって外で稼いでくれているのだ。彼女へのこの恩は私のこの先のすべての生涯をかけて返していかなければならないだろう。今の私は夫としての義務を果てせず、父親としての義務をも果たせないでいる。
失格者。
そうだ、家族に貢献できない私は、失格者の烙印を押されても仕方なかった。しかし、このまま落ちぶれていくのは嫌だ! このまま衰弱して恩を返せないままに、家族から永遠に去るようなことはしたくない。頬に伝わる熱い涙が口の中に流れ込み、苦みが広がった。身を粉にして働く妻を思うと、涙はとどまることなく溢れ出た。
妻。彼女は今何を考えているのだろう。不自由な私に失望し、自分の未来をも絶望の蓋で閉じようとしているのではないだろうか。
私は不意に妻をこの痩せ細った腕で抱きしめたい衝動に駆られた。妻を求めて部屋の中を無我夢中に見渡す。しかしそこに彼女の帰宅した様子はなかった。
家に帰る途中で、また実家に寄っているのだろうか。食事の時間を一度だって遅らせたことがなかっただけに、私は些か心に冷たい風が吹き込むのを感じた。実家に寄って帰りが遅くなっているだけならいいのだが。
憶測は妻の元気な姿が見えないだけのことで、悪い方にばかり私を誘い込んでいった。事故に遇ってなければいいのだが。ベニヤ板を鋭い爪を立てて掻き毟る音が、一層私を不安に包む。
妻が私と娘を捨てて三日が過ぎた。
「パパ。ママは? ママはどこ?」
もう三日も何も食べていない娘の弱々しい声が、微かに届いた。
「ママはどうしたの?」
飢えと疲労で娘は泣くこともしなくなった。
「ママはね、お仕事なんだ。少し遠くまで行ったみたいだから帰りが遅くなってるんだよ。心配しなくていいんだよ。すぐそこまで帰ってるんだから」
思いつくままに嘘を吐いた。
私の話に娘の顔がにわかに緩む。私はそんな娘の顔を見るのがとてつもなく苦しく、辛い。妻はもうここには帰ってこないだろう。私たち親子は彼女に捨てられたのだ。娘はもうすぐ母親が帰ってくると信じているが、私は娘をなだめる言葉をこれまで何度いったのか憶えていない。何も知らない娘は明日もまた訊ねてくるのだろう。
「パパ、ママは? ママはどこ? ママはどうしたの?」
明日、娘にそう訊ねられたら私はどう応えてやればいいのだろう。意識がままならない私の脳は答えを導くことを諦めたのか、それとも娘を見捨てようとしているのか、私に真っ白な映像を見せるだけだった。
一匹の猫が私たち家族からささやかな幸せを奪い取っていった。なぜだろう。よりにもよって私たち家族でなくてもよかったのではないか。猫を買ってきた日、娘はかわいいといった。今でもそう思っているのだろうか。恐らく三歳の小さな脳でも、家族が崩壊していった原因が何だったのか気づいているはずだ。
娘は猫が爪を砥ぐようになって、次第に目を背けるようになった。代わりに日を追うごとに衰退していく私を労って近づくようになった。娘は私の傍から離れようとはしなかった。しかし、妻は私から離れてしまった。幼い娘を私に残して。
彼女はわかっていたはずだ。もういつ死んでもおかしくない身体の私には、娘を育ててあげられないということを。なのに、彼女は娘を私に残して一人で姿を晦ましてしまった。
私が愛していた妻。
彼女は母性愛に満ち溢れた女性だと思っていた。ずっとそう信じて一緒に暮らしてきたのに。しかし、それは私の勝手な思い込みで、ただの幻想でしかなかったのだ。そう気づくのに私は時間をかけすぎたのではないか。寝たきりの私だけを捨てていくならまだしも、お腹を傷めて生んだ子をも捨てて逃げてしまったのだから。
もう、よそう。
彼女は帰ってこないのだから。
いくら彼女への想いを憎しみに変えたところで、現実に疲れた彼女が汚物の匂い漂う我が家の扉を開くことはないのだから。
私の両目からは涙はもう出なかった。悲しみは消え、何処から涌いてきたのか全身の至るところを蛆が這い回り、それに応えるようにじわじわと、この世を怨む憎悪の念が萎えた心の中を這い回っていった。
その卑しい念はあどけない娘の寝顔を見るときに一層増幅して私を驚かせた。この子だけは絶対に死なせない。絶対に死なせるわけにはいかない。憎しみが残された娘を思う私の親心を食い尽くしていく中で、娘を思う父親としての本能が怒りの炎を上げた。そして私を狂わせた物に呪いの言葉を吐かせつづけた。
そもそも妻が私と娘を捨てて蒸発したのも、我が家にあの忌々しい猫がやってきたのが原因だ。アイツさえいなければ、私は体調を崩すこともなく、妻や娘を養っていくことができたのに。すべての原因はあの猫にある。
妻が蒸発する少し前から、アイツの行動に異常を感じていた。狂ったように私たちの寝室の壁に爪を立て、ガリガリガリガリほじくり返そうとするあの姿は正気の沙汰ではなかった。
アイツは確実に私たち親子を狙っている。真っ先に狙いを定めたのは幼い娘だろう。娘はまだ小さい。そんな娘に襲いかかり、乱暴に爪を立て、そして喉元にがぶりと齧り付くつもりだったのだろうが、そうはさせるものか! 絶対にこの子だけは守ってみせる!
アイツも少しは知恵がついてきたらしく、私が病に伏していることに気づいたようだ。娘を弄んだ後、ゆっくりと自由の利かない痩せ細った私をオモチャにするつもりなんだろう。そうなる前にこっちから先制攻撃してやろう。
私は許さない!
私から平和を奪い取ったあの猫を。
どれくらい深い眠りに就いていたのかわからない。私は身体を激しく揺さぶられているような感触に目を覚ました。
「おい! しっかりしろ! 今すぐここから助けだしてやるからな!」
薄っすらとぼやけて、仲間たちの姿が見えた。
「おまえを助けるために皆んなきたんだ」
誰かの声の合間に、他の誰かが涙を啜っている音が聞こえた。一体どうしたことだろう?助け出すとはどういうことだ?私は皆目見当がつかなかった。だが猫嫌いの友人たちがわざわざ家まで訪ねてくれたことが何より嬉しかった。
「どうも有り難う。よくきてくれたね。何分こんな身体なものだから、お茶すらもいれてやれないんだ。許してくれ。こんな自分が惨めで情けないよ」
私はやるせなかった。
「おい! そんなことはどうでもいいんだよ。早くここから出るんだ。しかし、よくそんな身体で今まで生きていられたなぁ」
仲間たちの同情が惨めでとても辛い。
「もうこの数ヶ月、ほとんど食べられないでいたんでね。食欲がなくて、娘もここ何日も何も食べていないんだ」
私はすぐ傍で眠っている娘の頭を撫でてやろうと手を伸ばした。しかし、娘はどうしたことか、手が届く範囲には見つからなかった。
「残念だったな」
仲間が涙を浮かべて呟いた。私には何が残念なのか理解できない。
「娘さん、亡くなってたよ。君と同じくらい痩せ細って。餓死だ」
私は仲間の言葉が理解できなかった。この男は私を起こすなり意味不明なことばかり口にする。私はそっと瞼を閉じた。これはまだ夢なんじゃないのか? 夢に現れた仲間たちは私をここから助け出すだの、娘が餓死しただのと奇妙な事ばかりいう。
「これは悪い夢なんだね」
私は呟いた。
現実の地獄から回避された夢の中にいながら、私は目覚めたときの感覚で物事を考えることができていた。そんな自分に気づいたとき、思わず私は微笑まずにはいられなかった。そんなとき、仲間たちのひそひそと話している声が聞こえてきた。
「ダメだ。頭をやられてる。幻覚を追いかけてるよ」
「この状況だからそうなるのも仕方ないさ」
「兎に角急ごう! 他の連中がおとりになっているうちに」
「そうだな。じゃあ、持ち上げるぞ」
せーのっ!
大きな掛け声とともに私の身体がふわりと宙に浮いた。仲間たちが軽々と私を抱え上げたらしい。これも夢、なのか?しかし夢とは思えないほどリアルな感触が皮膚を伝ってくる。
寝室を出たとき、猫が死にもの狂いで家の中を逃げ回っている音が聞こえた。他の仲間たちに追いかけられているのだろう。暗闇の中を慌てて逃げるものだから、部屋のあちこちで頭や身体をぶつける音がとてもやかましい。時折自動車の急ブレーキに似たうめき声も聞こえていたが、仲間たちは執拗にアイツを追い、痛めつけたのだろう。
私はアイツに哀れみは持たない。私の幸せな生活に土足で踏み込み、自由気ままに悪さをし、揚げ句の果てに私が夢に描いていた幸福に満ちた未来をも叶わぬものにしたのだから。アイツには罪がないのかもしれない。多分、そうだろう。だが、現実にアイツがそこにいるだけで、家族は崩壊してしまったのだ。仲間たちに痛めつけられながら思い知るがいい。我が家にきたことが、我が身に災難を招いたことを。
仲間たちに担がれた外に出たとき、爽やかな外気が私に微笑みかけてくれた。もう何年も外に出たことがなかったような感じがした。新鮮な空気。微風が体毛を撫でながら通り過ぎていくのが、これほど気持ちよいものだとは思わなかった。
私は猫の体臭が立ち込める地獄から解放されたことに大いに喜びを感じていた。それにしても、仲間たちはなぜ私一人を外に連れ出したのだろう。私一人を助けるのはどう考えてもおかしい。娘は?あの子が一緒でなければ私は何処にも行けない。
「おい、母さん! 目を覚ましたぞ! 早くきなさい」
懐かしい父の母を呼ぶ声が聞こえた。
「ああ、よかった!」
駆け寄った母が私の手を強く握り締めて涙を流している。
ここは何処だろう。父さんも母さんも、一戸建ての我が家には一度だってこようとしなかったのに。今日はまたどういう風の吹き回しなんだ?
「もう何も心配することはない! よく頑張ったな。ほんと、よく頑張ったよ!」
父も私の手を握り締めてきた。さっぱり両親のいっていることがわからない。
「よくきてくれたねー。あんなにここにくるのを拒んでたのに」
私は両親に微笑みかけた。素直に我が家にきてくれたことが嬉しかった。
「まだ意識がボウッとしてるんだね。ここはおまえの家だよ。おまえが生まれ育った団地だよ」
母はもう泣いてなかった。私はどうやら実家につれてこられたみたいだ。目覚めたら実家に帰ってただなんて。
「夢じゃなかったんだね」
「そうだよ。ここは団地だよ。もう恐ろしいことは起こりはしないよ」
母の声を聞きながら、静かに瞼を閉じた。そうか、もうアイツもいないんだな。アイツさえいなければいいんだよ。これで家族は幸せになれるんだ。
私は妻と娘の具合が無性に気になった。
そうだ、妻はどうした!
娘はどこだ!
私は目をカッと見開いて、横たえていた身体を起こそうとした。
「どうしたんだい突然! まだ容態はよくないんだからね。横になって休んでなきゃダメだよ」
「家族は! 妻は! 娘はどこ!」
私は言葉にならないままに叫んだ。父と母が視線を背けた。私は嫌な予感を感じた。
「気を落とすんじゃないよ。いいね」
「何をいい出すんだよ」
私は狼狽した。
「孫はおまえのすぐ傍で丸くなって死んでたそうだよ。何にも食べてなかったんだね。骨と皮だけになって目を見開いて死んでたそうだよ」
頭の中が真っ白になったかと思うと、突然激流が流れ込んだかのように様々な情景が頭の中でうねりはじめた。
そ、そんな馬鹿な!
あの子が死ぬはずないだろっ!
嘘だぁ!
「変な冗談はよしてくれよ、母さん。あの子が死ぬわけないよ。あの子はね、ぼくの傍にはいなかったよ。仲間に起こされたとき手探りで探したんだ。でも、いなかった」
「おまえを起こす前に孫は外に移されたんだよ」
全身の筋力が地球の引力に耐えられないのを覚え、その場に崩れ落ちた。自分で震わしてるわけではないのに、奥歯はカチカチと音を立てて、全身は激しく震えていた。
「う、嘘だろ」
「辛いけど、本当だよ」
母は涙を一杯に溜めた目を向けていた。
息苦しい。とても息が苦しい。頭もどうにかなりそうだ。そんな話をどうして信じられるというんだ!
「妻がぼくと娘を捨ててからというもの、あの子はずっとぼくの傍にいた。なのに……」
両目から涙が吹き出してきた。
「ああ、おまえはまだ知らなかったんだね」
「何がだよ? 妻の居場所がわかったってのかい。ねぇ、母さん! 彼女はどこにいるの!」
私は母に圧し掛かるように縋り寄った。
「おまえ、今、おまえと孫を捨てたといったね?」
「ああ。悲しいが彼女はぼくたちを見捨てたんだ」
「可哀相に。おまえが母さん不憫でならないよ」
母が涙を袖で拭った。
「どういうこと?」
「あの子はね、おまえと孫を見捨てたんじゃなかったんだよ。働けないおまえに代わって、おまえと孫にひもじい思いをさせないために必死に働いていた。一度家に同居の相談できたことがあったよ。あの子はおまえを元の身体に戻すために必死だった。けっしておまえたちを裏切るような子じゃなかったんだよ。あの子は軒下にいたんだよ」
「軒下? どうしてまたそんなとこに。なぜ家の中に入ってこなかったんだ!」
「ちゃんと家には入ってたんだよ」
母がそういったとき、それまで静かに聞いていた父が涙声でいった。
「だから、猫のいる家は早く出るようにいったんだ!」
父はそういうと顔を真っ赤にして怒りを押し込めた。
「軒下でね。あの子は骨になってたよ」
その瞬間私は意識が遠のいて行くのがわかった。遠くで父と母の声が微かに聞こえていた。
「今も昔も猫はネズミを獲って食うんだ! だから一戸建てに棲みつくとき反対したんだ! 強引にでも一戸建てに棲まわせないように食い止めるべきだったんだ!」
「すみません! わたしがこの子を甘やかして育てたばっかりに、取り返しのつかないことをしてしまいました」
「ネズミはネズミらしく集団で生きなければならないんだ!」
妻と娘を失って、もうどれくらいになるんだろう。
二人を亡くしたショックで気が狂れたと思われ、両親と仲間たちに半ば強制的に病院に入院させられた。
ここでの生活は快適だ。
ペットなんて絶対に侵入してこない。建物の構造も団地によく似ている。食事は決まった時間に毎日三度用意してくれる。身体がどこも悪くないから、病院の敷地内なら散歩も自由だ。妻と娘が亡くなる前、もう随分前のことのように思うが、こんな生活に憧れたこともあった。
昼間は中庭の陽が射す場所で昼寝をして楽しんでいる。こんな生活をどのくらいつづけているのか本当にわからない。この先もどれくらいこんな生活を送るのかわからない。
ナースや患者さんが中庭にいるときなど、タヌキ寝入りでその人たちの会話に耳を澄ますことがある。たまに私の噂話をしている人たちに出会うことがある。不思議なことに、私をちらちら覗き見ながら、皆んな同じことを話しているのはなぜだろう。
「あそこの陽だまりでお昼寝されてる患者さん。あの方、御自分のことをネズミだと思い込んでるのよ」
「あ、その噂聞いたことがあります。あの方でしたか、中央病院のネズミ男さんって」
毎年毎年、こんな会話を耳にする。おかしな話だ。皆んな何を考えているのだろう。まるであたかも自分たちは人間であるかのような話振りだ。鏡に全身を映したことがないのだろうか。お尻からひょろりと垂れた尻尾が見えてないとはいわせないぞ。
この病院のドクターもナースも皆んな私を人間だという。何をとぼけたことをいってるのか?
どこからどう見ても、私は正真正銘のネズミだ。人間だと思い込んでいるあの連中は、どうやら相当に頭がいかれてるみたいだ。
もう随分と長い間人間の生活に合わせて生きてきたとはいえ、所詮ネズミはネズミでしかない。いくら人間と共存したからといって、ネズミが人間になれるわけがない。
可哀相に……。
そんなに人間だと思いたいのなら、一度猫を抱いてみるといい。
私はもう懲り懲りだ。
了
(400字詰原稿用紙換算枚数 56枚)
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