案内係のお姉さんがあっちへ行ったので、早速引き出物の紙袋を開いたら、
子供の腕が二本。
あーらビックリ! と思ってよく見ると金色で寿の刺青をされた太いチクワが、包装されないまま放り込まれていた。
グニャリと折れ曲がったキツネ色のそれは、太さといい、長さといい申し分なく生々しい質感を放っていた。
でもホッとしたのも束の間、引き出物が巨大なチクワ二本だけだと知ったとたん、脱力感と共にヘビー級の黒人ボクサーの右フックを食らったような衝撃が脳に走った。脳がこんなに激しく揺れたのは一年ぶりだ。
これも一応愕然というのか…。いや、そんなに生易しい言葉では片付けたくはない。
見栄を張って夫婦二人で10万円も包んでやったというのに…。どうせなら巨大な骨付きソーセージにしてくれれば良かったのに。
会社の先輩であり近縁の結婚式で今更良いヒトを気取ったところで、どんな見返りがあるのかと冷静に思い直してみる。すると期待できそうなものは何もないことに気づきハラワタが煮えくり返った。
オレは脳の揺れが治まりきらないまま、テーブルクロスに頬を擦り付けた。
披露宴が執り行われる鳳凰の間には八人掛けの丸いテーブルが20ほど配置されていた。オレと妻のメイちゃんが案内されたのは中央ど真ん中の新郎の近縁者のテーブルだった。オレはメイちゃんの右に掛けた。
ちらりと同席者の顔を見る。多分皆んな近縁者なんだろうけど生憎知った顔はない。ミイラ並みに干からびたジジィがカバとサイのババァ二人に挟まれ、そんでもって気難しそうな眼鏡オヤジが向かいに座った二人組みのオバサンを意識してチラチラ見ている。
オレとメイちゃんのお陰でこのテーブルの平均年齢はかなり下がったに違いないな。って、チクワのショックがまだ癒えないのに何下らんことを考えてるんだ、オレはぁ!
あーあ、こんなことならくるんじゃなかった…。
そう心の中で愚痴ったところへ、タイミングよくメインイベントの披露宴の開始を告げるゴングが鳴り響いた。
新郎のカケカケ・ココとの付き合いは長い。新婦は知り合って一時間くらい。さっき参列した式では角隠しが邪魔してどんな顔してんのかよく見えなかった。恥ずかしそうにずっと俯き加減でいたから退出のときもわからなかった。
噂によると小顔でかなりの美人らしい。と言ってもこれはココちゃんが酔っ払ったときに、見合いでしか嫁さんを見つけられなかった自分を苛めながら言ったことだからアテにならん。
雛壇にはまだ二人の姿は見えない。
ココちゃん! いつまで待たすつもりだよ! オレもメイちゃんも腹減って死にそうだよ。
オレは新郎新婦が入ってくる扉に力なく視線を漂わせた。知らないうちに、脳の揺れは縦揺れから横揺れに代わっていた。
珍しく優しい口調でココちゃんから結婚の話を知らされたとき、10万円包んでくれたら美味いもんを腹いっぱい食わしてやるよと言われた。
これはオレへの挑戦状だと思った。
折角の挑戦を承らないのも失礼だと思い、オレはメイちゃんと二人で快く承ることにした。
で、一週間前からオレもメイちゃんも一切飯を食わず、断食生活を送っていたわけだ。
しかし、流石に一週間は胃に堪えた。この日を迎える道中で何度涅槃の入り口を見たことやら。我ながら生きてこうして席に就いていることが信じられん。オレはまだ10分くらいは辛抱できそうだけど、メイちゃんは…、完全に限界を超えてるだろうな。
そう思っていると案の定、
もおっ!
妻は御立腹のようである。生きることは食うことよがモットーのメイちゃん。今のオレには彼女のひもじさを紛らわす気の利いた言葉は見つからない。夫でありながら手を拱いて見守るしかないのかぁ! こんな己が不甲斐ない。
メイちゃん! もうすこしの辛抱だゾ!
オレもガンバル。だからメイちゃんも諦めないで!
ここは鳳凰の間のど真ん中。人目があるので心の中でせめてもの愛の言葉を叫んでみた。無意識に握り締めた拳に力が入りすぎて痛い。でも、メイちゃんの胃のシクシクする痛みに比べれば、爪が皮膚に食い込むくらい屁でもない。
さりげなくメイちゃんの様子を窺う。
テーブルの上にギザギザのアーチ状に立てられたナプキンが荒い鼻息で前後に揺れている。あ、あともう一押しで倒れそう。
これは相当怒ってるなぁ…。
そう思いつつ、恐る恐る流し目でチラリと彼女のプロフィールをなぞってみた。
彼女のカラス貝のような大きな瞳は乾き切り、熱気を帯びた鼻息は外気に触れるとたちどころに冷めて水滴に変わり、鼻の頭を早朝の草葉に光る露のように転がった。
クチャクチャ動かす度に唇から溢れ出すムースの唾液が、顎の先から氷柱に垂れて荒い吐息に緩やかに揺らぎ、テーブルクロスに数滴落ちた黄色い染みが微かに乾いて実に臭い。
オレはメイちゃんをこの世の誰よりも愛している。
でも…、
彼女の臭い吐息はいくらガンバっても好きになれなかった。
許してくれメイちゃーん!
メイちゃんに知らない人に愛想を振りまく余裕なんてない。完全に理性を打ち砕かれ、飢えた野獣に成り果てようとしている。
このままマジで気が狂ったらどうしよう。一旦暴れ出すとまずアフリカ象かダンプじゃないと彼女を取り押えることはできんだろうな。
一度だけ正気をなくしたメイちゃんを見たことがある。
あれは去年の夏、二人で夕方土手を散歩していたときのこと…
ギュウェー ギュッギュウェー
突然、メイちゃんが渡り鳥のようなタンが絡んだ鳴き声を上げたかと思うと、流れの速い川目がけて突進した。オレは咄嗟に叫んだ。
「ずるいよメイちゃん! オレ、海パン持ってきてないヨ! 一言いってくれればよかったのにぃ…」
すぐさま彼女を追い、膝まで川に浸かる。オレは羨ましそうに彼女の遊泳を眺めるしかなかった。
メイちゃんは得意のクロールでオレのハートをくすぐった。時折ボラのように水面を跳ねる姿に、オレは見たこともない天女の舞をイメージした。
メイちゃんは波間を縫うように水面を飛び、終には勢い余って向こう岸に跳ね落ちた。打ち所が悪かったのかピクリとも動かない。
そのときオレは神様の御手が下ったんだと思った。
オレを残して、自分一人気持ちよく水浴びしたからバチが当ったんだ。
気絶したのか…。詳細が摑めないまま、オレは向こう岸で横たわるメイちゃんを見守るように見詰めていた。
オレが彼女の異変に気づいたのはそのときだった。不意にスクッと立ち上がったかと思うと、首の骨が折れんばかりに扇風機みたいにブルンッブルンッと振り回しながら、土手に不法投棄された錆びたボロ車に次ぎ次ぎ頭突きをかましはじめた。
その勇ましい姿は正気の沙汰ではなかった。メイちゃんは完全にキチガイになったと思った。
オレは彼女のもとに駆け寄ろうとした。しかし、躊躇ってしまった。川を渡れば服を濡らしてしまうことになる。決断のときが迫られた。少し先に夕焼けに黒い影に浮かぶ橋が見えた。遠回りだけど橋を迂回することにした。
不安と焦りが幾度も絡み合い、駆ける脚まで絡まりそうになって何度もこけそうになった。自分一人ではどうにもならないと思った。気がつくと鼓膜が裂けるくらい大きな声を上げて誰かに助けを求めていた。
「助けてください!
オレのメイちゃんを、
助けてください!」
知らぬ間に涙が出ていた。誰でもよかった。彼女を救ってくれるなら、それが邪悪な神だとしても、一生仲良く付き合っていける覚悟ができていた。
鼻水が止めどなく垂れて鼻の穴を塞いだ。窒息死しそうなくらい苦しかったけど、メイちゃんが心配だったから走りつづけた。絶対に立ち止まらない。一度止まればもう脚は言うことをきいてくれないのはわかっていた。
オレの叫び声に会社帰りらしき一人のオジサンが気づいて、オレと一緒に走ってくれた。
橋まではオレの方が勝っていた。でも鼻水で上手く腹式呼吸息ができず、一寸減速したとき、それを待っていたかのようにサラリーオヤジがラストスパートをかけた。
ウソだろ!
衝撃が48ビートで鼓動を刻んだ。次の瞬間、サラリーオヤジのいやらしい流し目がスローモーションで何度もリピートしてオレを越えて行った。
オヤジの背中が徐々に小さくなっていく。汗で透けた白のYシャツに、黒いブラのラインが浮き出ていた。
変態が、オレを抜いて行く…。
それを自覚した途端、脚は地を蹴る力を失い、橋の中ほどまできてとうとう一歩も踏み出せなくなった。
こ、こんなハズじゃない!
オレは一度だって負けやしなかった。なのに、なぜだぁ!
なぜ選りに選ってあんな変態サラリーに…。
絶望感と蚊の大群に纏わりつかれた。黄昏時の黄金色に眩しい川面が涙でぼやけた。
この世に神はいるのか、不意にそんな疑問が過ぎった。
ならばメイちゃんにバチを当てたのは何物だったんだ?
あれは神の御業ではなかったというのか!
「じゃあ、何だったんだよぉ!」
力の限り泣きながら叫んだ。
小判のような細切れの川面の照り返しが、世の無常をオレに語りかけてきた。
「そうかい、あんたが言うように神は名ばかりになっちまったんだな…」
黄金の水しぶきが川面の所々で小さく立ち、オレの搾り出した無念をそっと流れに掻き消していった。
世界の崩壊がすぐそこまできているのが、皮膚に纏わりつく湿った空気でわかった。
不意に変態の動向が気になり、行方を追った。
橋を渡りきり、土手を駆ける変態は今まさにキチガイになったメイちゃんに特攻を仕掛けようとしていた。しかし、次の瞬間、誰もが予想しなかった事態が起きた。
変態がメイちゃんの間合いに入った瞬間、頭突きをかまそうとした変態の頭部がメイちゃんの振り回す首に接触して、クチャッと短い嫌な音がしたかと思うと勢いよく弧を描いて跳ね飛ばされた。ゆっくり宙を舞うその姿は見ていてすごく気持ち良さそうだった。変態はポチャンと音を残して激流に落ちた。
オレは橋の中心で世界の終わりを秒読みしながら、激流に揉まれる変態の行方を眺めた。変態に絡む流れはそこだけ不思議と赤かった。激流に飲まれ、変態は浮いたり潜ったりと忙しない。
橋に近くづくにつれて変態の顔が識別できるようになった。
奇妙だった。
そいつには目がなかった。オレにいやらしい流し目を送った目を何処で落としたんだ?
ていうか、鼻先を残して目から頭部にかけて影も形もない。
清らかに澄んだ流れは変態の頭部に触れると忽ち水は赤くなった。吹っ飛んだ断面から水でふやけたミミズの屍骸みたいな物がビロビローンといっぱい出て、水で洗われていた。それを脳の小さい小鮒どもが餌だと思って、我先に食おうと群がっている。夕陽を銀のボディーに反射した小鮒の群れは、秋の落ち葉を連想させ、オレを一層センチメンタルな気分にさせた。
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