湿った風が頬を冷たく愛撫した。オレはハッと我に返るとメイちゃんを探した。土手に沿って目を凝らす。さっきまでいた所には姿がない。
膝がガタガタ震えた。
「イヤだ! メイちゃーん
オレを置き去りにしないでくれ!」
涙がどっと噴き出した。全身に脱力感を覚えた途端、目の前が真っ白になった。次の瞬間、アスファルトに激しく額を打ちつけて正気を取り戻した。頭に熱い痛みが走った。アスファルトには赤い血痕が点々とあった。
痛みを堪えて欄干にしがみつく。すると土手のずっと先でボロ車に頭突きをかますメイちゃんがおぼろげに見えた。
安心感がオレに大きなため息を吐かせた。たちどころに肺に溜めた空気が全部出たんじゃないかと思うくらい強烈な痛みが胸を襲った。倒れたとき肺臓を押し潰したらしい。
綺麗な臓器を失ったことに悲しみはなかった。オレは嬉しかった。メイちゃんの無事が確認されたんだもの。
「良かったね。メイちゃん…」
オレはそのまま意識を失い、目が覚めたときには三分が過ぎていた。オレは焦った。
「しまった! 誰か起こしてくれればよかったのに。畜生!」
すぐさまメイちゃんを探したが何処にも見えない。焦りは不安に変わり、オレの潰れた肺臓を一層締め付けた。
うっ、く、くる、
痛いっ!
丁度そのとき、近所の土建屋の兄ちゃんが威勢よくダンプで通りかかった。
オレは透かさず肺臓の痛みを堪えて叫んだ。
「土手の先のメイちゃんを、そのモンスターで弾き飛ばしてくれ」
「ラジャ!」
ブルーン! ドッドッドッドッド!
気前のいい兄ちゃんは快く引き受けてくれた。黒い煙を上げ、全速力で滑走するダンプはまさにサバンナの草原を土埃を舞い上げて暴走するアフリカ象そのものだった。
20秒後、ダンプのクラッシュする激しい音と、メイちゃんのイヤ~~ンの悲鳴が微かに聞こえた。
その後、メイちゃんは近くに潜んでいた救急車に拉致され、メイちゃんの命を仕事帰りに全力で救ってくれた土建屋の兄ちゃんは、駆けつけた警察とどっかに行ってしまいあの日以来誰にも姿を見せなくなった。
メイちゃんは三週間後に何事もなかったように県立総合病院からふらりと帰ってきた。その日、昼間会社近くのファミレスでたまたま土建屋のオヤジと合席になった。オヤジはオレと顔を合わしてもまったく気づいた様子はなく、一人でブツブツ仏仏何やら独り言を呟くばかりだった。耳を澄まして聞いてみると、
「あの野郎! 仕事をズル休みしやがって。見つけたらブッ殺してやっからよ!」
と言いながら、行儀よくお茶漬けをすするようにできたてのドリアに食らいついた。
オレも仕事をズル休みしたくなるときが日に何度かある。オレにはそれを実行する勇気がなかったが、そうか、あの兄ちゃん、あんたとうとう夢を叶えたんだね。
オレは心の中で兄ちゃんにエールを送ってファミレスを後にした。
何はともあれあのときはどうにかメイちゃんのキチガイが治って良かったけど、まだちょっと何か不安だったので次の日、近所の拝み屋の若い女に診てもらった。すると、
「タヌキじゃ! タヌキが憑いておったんじゃ」
と、オレより二、三歳若そうなのに年寄りみたいな喋り方で言われた。若いからといって客にナメられないようにそんな喋り方をしているのだろうか?
それはそうと、オレにはタヌキがメイちゃんにくっついているようには見えなかったが、オレの死角でメイちゃんにしがみ付いていたというのか?
そう思って拝み屋を問いただしたが、一切答えてくれなかった。代わりに、
「あの土手はタヌキがバカすことで昔から有名なポイントじゃ。ヒェヒャヒャヒャ」
と笑いながら言われたけど、全然面白くなかったのでオレは笑わなかった。
ギュルルルル ギュル ギュルギュル
腹の虫に飯を催促されて回想から目覚めた。
現実に戻ると空腹感がリアルに胃を締め付けて激痛にのた打ち回りたい衝動にかられた。
家なら着た物をそこら中に脱ぎ散らかしてそうするだろう。しかし、ここは鳳凰の間、無理やり衝動を押し殺した。
まずいなぁ。完全にヤバイぞ!
オレはさておきメイちゃんは限界値をとっくに超えてる。もう空腹感に構ってる余裕はない。キチガイになったメイちゃんを想像すれば、空腹感なんかどっかに消え失せた。
一先ずメイちゃんが暴走したときのために安全な場所はないものかと見渡したが、こう込み当ててはないように思われた。
「メイちゃん、もう少しの辛抱だからね。ここにはダンプは入ってこれないんだから頼むよ」
オレはメイちゃんの耳元で気分を損ねないように優しく囁いた。
ブルルルルルルル ブルルルルルルル
オシッコを我慢してるみたいに身体を小刻みに震わしながら、オレをギロッと睨んだメイちゃんはいつでもキチガイに変身できる準備が整っていた。
為す術もなく、オレはココちゃんを結婚させてくれた神にお祈りを捧げた。
もう何でもいいから、早く食わしてくれ!
神への祈りが届いたのだろうか? そのときパッと照明が落ち、それぞれのテーブルに立てられた蝋燭の炎が星のように中空に浮いて見えた。司会の女がココちゃんたちの入場を告げると、さっき入ってきた観音開きのドアにスポットライトが当てられた。
照明の丸い光の中でドアがゆっくり開いた。
ココちゃんが、新婦の肩に手を回して、抱き寄せながら恥ずかしそうに顔を赤らめて入ってきた。場内に一斉に拍手の嵐が起こり、パチパチとフラッシュがたかれた。
おや?
光に包まれて登場したココちゃんはいつものココちゃんじゃなかった。
いつの間にあんなに背が伸びたんだろう?
さっき式のときはいつもと変わりなかったのに…。
不思議に思いココちゃんの足元を見ると、すんごい上げ底の白いエナメルのロンドンブーツを履いていた。ヒールの高さは70センチはあろうか。
ふと、先刻行われた結婚式の奇怪な光景が脳裏に思い浮かんだ。あの場では笑いを堪えるのに恐ろしいくらい神経をすり減らされた。
新郎のココちゃんはオレより一つ年上の二七。にも関わらず頭には毛が数えるほどしか生えてなかった。これは抜けたのではなく生まれつき毛が生えない体質だった。その代わりと言っちゃあなんだけど、胸毛と背毛、それにケツ毛はグリズリー並みに生い茂っていた。
オレも父親似なら二六年前にとっくにツルッパゲだったに違いない。運良く母親のDNAを多く受け継いで良かったと思う。ある日、突然、何の前触れもなくオレの中の眠れるオヤジの遺伝子が目を覚ましたらどうしよう。
そんな将来の不安はさておき、式場となったホテルのチャペルは厳かにキリスト教風味の様相を呈していた。なのに神父さんのいでたちときたらなんだありゃ…?
あれはどう見てもジャパニーズスタイルの神主の余所行きの格好だった。御内裏様みたいな紫の着物に黒いジャンボタニシみたいな帽子を被り、しゃもじを胸の前で両手の指で持つ姿は、色盲で信号の色が代わったのも気づかず赤信号で突進して周囲から喝采を浴びるメイちゃんの目にも明らかに場違いに映っていたはずだ。
そのミスマッチな装いに腰を砕かれる余裕もなく賛美歌の合唱がはじまると、観音開きのドアを押し開けて新郎新婦が登場した。
一瞬歌声が半音上がり東北の民謡風に変わったものだから、変だなぁと思っていたら、ただ単に参列者が新婦の格好に衝撃を食らって音程を外しただけだった。
オレは冷静を保ちつつ、呆気にとられながらもじっと二人の後姿を眺めていた。オレは滅多なことでは驚かない純粋な心の持ち主だ。メイちゃんがタヌキにバカされてキチガイになったときは一寸ビックリしたけど、この前、メイちゃんの弟が狂牛病で家族が見守る中、阿波踊りをしながら息絶えたときも全然平気だった。それに、ココちゃんが結婚を機会にオーストリッチのヅラをフランスの有名な鞄屋にオーダーした話を聞いたときもクスリとも笑ってやらなかった。
なのにこの初対面の新婦の格好ときたら、第三者のオレの方が顔を真っ赤にして穴があったらケツを出して隠れたいくらい恥ずかしくなった。会った途端にこのオレを打ちのめしてしまった嫁の背中からはオーロラみたいなオーラが出ていた。多分、近い将来大物になるだろうな。赤の他人のオレにそこまで彼女の未来の可能性をイメージさせるとは、
ほんと、大したタマだ。
オレは声を出して笑って良いものかどうかと賛美歌を熱唱するメイちゃんの肩ロース辺りを小突いて訊ねた。すると、
もっ!
恍惚感に浸り悦に入ったメイちゃんの機嫌を損ねてしまい、恐ろしい顔で睨み返された。
そうだったメイちゃんはカラオケが大好き。いや、歌うのが三度の飯の次に好物だったことをうっかりしていた。
しかたなく声には出さず、肩を小刻みに揺する程度の笑いに抑えて新婦の不細工な格好に意識を奪われないように歯を食いしばって、ホッペをギューッと爪で抓って我慢した。
新郎のココちゃんは純白の燕尾服で、ま、これは極一般的で軽く見過ごせる。しかし、新婦ときたらあれもある意味今思えば参列者へのサービスだったんだろうな? 角隠しに白むくという純和風のユニフォーム姿は、神父さんを前に並ぶとまるで燕尾服のココちゃんが服を間違えたんじゃないかと参列者を戸惑わせる効果があった。
それにしても、西洋の神秘を津々と醸し出していたチャペルの雰囲気が、神父と新郎新婦の奇妙な格好のおかげで完全にダメにされたのは残念でならん。
格好も目を楽しませてくれたけど、二人の身長差の凄さも後々まで語り継がれるほど印象的だった。
オレは一瞬身長153センチのココちゃんが小人になったのかと思った。それほど嫁さんはノッポだった。その差は優にメイちゃんの顔の長さを越え、オレの股下ほどあった。
そのときふとファッションモデルのようにスラリと伸びた細い脚と首がとても素敵なんだよと、ココちゃん自慢気に言いまくっていたのを思い出した。
ふむふむ。確かに背は高い。でもファッションモデル並みと言うには支障があるような……、いや、それを遥かに凌いでバスケやバレーの選手並みにデカイ。少なく見積もっても2メートルは下らないだろう。背が高いというのはわかったが、脚や首がどの程度スラリとしているのかはお召し物が邪魔で確認できん。
下らんことを考えている間に、新郎新婦が神父さんに何か話し掛けられていた。
「新郎のカケカケ・ココさんですね」
ココちゃん緊張してガチガチなのか神父さんに何を訊かれてるのかもわからないでいる。
「カケカケ・ココさん。あなたは新婦のカスさんをそこそこ愛しますか? それともたまーに都合の良いときだけ利用しますか?」
参列者は神父さんのお決まりな質問には全然関心なく、早く終わんないかなぁと余所見をしている。
「Bで」
ココちゃんがもじもじと呟いた。すぐさまココちゃんと神父さんの間に嫁さんが割り入って口を挟んだ。
「1番でお願いします」
忽ち場内に割れんばかりの喝采が起こった。参列者の誰もが、良くできたレディーだ。ココにやるには惜しいファーストレディーだと、わざと大きな声で仰々しく称賛しはじめた。
別に一番大きな声で褒め称えたヤツにプレゼントをやるってわけでもないのに、いい大人が顔を真っ赤にして大声で吼えている。
結婚式では当たり前の光景だけど、オレはどうもこういうのは苦手で好きになれなかった。暇つぶしにため息を吐きつづけるオレとは対照的に、メイちゃんはその大きな巨体を小刻み震わせて全身で二人の門出を祝い、頭に被った角隠しが何度も落ちそうになる度にオレは押さえてやった。
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