その日の午後、浜田に息抜きに9階のラウンジに誘われた。そこは行き交う人の姿も少なく静かだった。期待が大きかっただけに、浜田の予期せぬ知らせは俺の心に大きな風穴を開けることになった。
浜田の後に虚ろについていく俺は、彼に指示されるまま力なく椅子に座り、紙コップにいれたコーヒーを二つ持った浜田をボーッと見ていた。
「まあ、飲め」
一つを俺に手渡した。浜田に気を遣われてるのかと思うと、余計に淋しく思えて嫌だった。浜田は俺の隣に腰をかけると元気付けようと話しはじめた。
「まあ、そうがっかりするな。俺に頼まなくても、結婚相手はちゃんと見つかるよ」
両手で包むように持った紙コップのコーヒーの上澄みに、虚ろな顔の俺が映っていた。気力を失った俺には浜田に応えることさえだるい。
「おい、やっさん!」
耳元で浜田が大きな声で呼んでいた。俺はゆっくりと浜田に顔を向けた。
「おいおい、しっかりしろよ。もう一生彼女ができないってわけじゃないんだから」
俺はコーヒーを一口飲んだ。そして、
「おまえは結婚してるからそんなことが言えるんだよ。奥さんとは、去年知り合ってすぐに結婚したわけじゃないだろ!」
「まあそうだけど。これからいい人が現れるよ。俺たちよりも年上で結婚してない人なんて、この会社には沢山いるじゃないか。
でも、何で急に結婚したいなんて言いだしたんだ? よく言ってたじゃないか。結婚は晩婚にかぎるって。結婚するまでは自由に好きなことを楽しむんだって豪語してたのに。
何かあったのか? 田舎のご両親が早く孫を抱かせろって催促してるとか?
あ、もしかしてお父さんか、お母さんもうそんなに永くないのか?」
「親はあと50年くらい生きそうだ」
「そうか…。じゃあ、何で急に結婚したいなんて。俺が結婚式の話をしたからか?」
「結婚式?」
俺は天井に視線を向けて、そのままボーッと昨日のことを思い出していた。結婚式の話をしたのは憶えている。でもそれが原因なのかどうか俺にもわからなかった。
「なんだそうじゃないのか」
浜田はコーヒーを一気に飲み干すと、タバコに火を点けて吸いはじめた。
「やっさん、ほんとのとこどうなんだ。ほんとに結婚したいのか?」
「したい。したいよ!」
「でも、突然不思議だよな。あれほど晩婚にこだわってたのに」
結婚願望はつい一寸前までは微塵もなかったはずだ。でも、何故昨日あんなに結婚したいと思ったのか、自分でも不思議でならなかった。
何故だ? 何故、普段考えてもなかったことを考えてしまったのだろう?
その時、ふとあの奇妙な夢を見たからじゃないかと思った。俺は浜田に見た夢を話してみることにした。
「昨日変な夢見たんだよね」
「どんな?」
浜田はタバコの煙をゆっくり吸ったり吐いたりしている。
「今朝も見たけど。今朝のはどうも昨日の続編だったように思う」
「夢の続きか。へぇ、面白そうだな」
「この会社って、リストラしないんだよなぁ?」
「突然何だよ。とりあえずそうだけど実際はどうだか」
「そうだよな。ほんとのとこなんてわからないよな…」
俺は静かに天井を見た。
「おい、おまえが見た連続ものの夢と、この会社のリストラが何か関係あるのか?」
「いや、わからないけどね。昨日、俺、動物園の夢見たんだ。おかしな動物園でさ。客が俺以外は誰もいなくて、動物園の人も何処にもいないんだ」
「へえ、それで」
「檻があってね。そん中に人間がいたんだ」
「動物園じゃなくて刑務所だったとか?」
「いーや、動物園だった。松村さんが檻の中にいたんだ。虎になってたよ」
「虎? あの課長がか」
怪訝そうに浜田が訊き返してきた。
「あの人、俺にはそんなに凶暴な人間には見えないけど。大人しくて温厚な印象しかないよ」
「檻に入った松村さんはスーツ着ててな。俯いて体育座りしてたんだ。俺、松村さーんって声かけてやったのに、逃げるように隠れたんだ」
「どうしてスーツなんだ?」
「うん、虎だからな」
「おいおい、意味わからんぞ。虎柄のスーツってことか?」
「檻の中にいる前は家の中でも虎だったって説明にあった」
話が理解できず浜田が首を傾げるのも無理もない。
「全くわからんが、まあ確かに課長は仕事の虎だからなぁ。家に帰っても虎のような威厳は放ってたんじゃないか」
「でもな…、俺は松村さんのような生き方はなぁ…」
「できないか?」
「一昨日だった。松村さん部長に酷い口叩かれてたんだ」
浜田の顔をちらりと見て俺は頷いた。
「部長って松村さんよりも随分若いんだよな。でも、別に珍しいことじゃないじゃないか。どこの会社にもあることだよ」
「まあな。いつも見慣れてる光景だからその時は別に何とも思わなかったんだ。でも、昨日あんな夢を見た途端にな、何か虚しく思えてね」
「あの人確か先月だっけ、離婚したの?」
「ああ。随分前から別居してたみたいだけどな」
「家庭では随分前から虎じゃなかったのか。虎って家族作るんだったっけ? 確か成長したら単独行動だよなぁ?」
「どうなんだろう? わからないけど。俺はあんな風に生きていくのはできないな。というよりも、嫌だな」
「でも、勤め人なんてそんなもんじゃないか?」
「浜やんは? おまえが仕事の虎になって、奥さんと別居するようになってもいい? それがおまえが昔から夢に描いていた理想の生き方だと思う?」
浜田は静かに窓の景色に目をやった。
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