我が家にアイツがきて二ヶ月が過ぎた。
相変わらずアイツに愛情を見出すことはなかった。
それもそのはず、私の猫嫌いは以前に増して膨れ上がっていた。アイツがきて以来、私は不眠症で毎日気だるさに苦しめられるようになった。
新しい環境で二ヶ月も生活すれば、何処に何があって、家族がどのような生活リズムを送っているのか把握したのだろう。アイツは誰もが寝静まった夜中に盛んに行動するようになった。誰にも気づかれないように、家の中を巡回するのだ。静かに、絶対に足音を立てないように、その四本の脚の神経をピンと張り詰めて。しかし、いくらアイツが注意を払ったところで、私がアイツの居場所を見失うことはない。まだ仔猫のアイツは自分の身体が猫の匂いを絶え間なく放出していることに気づいていないらしい。
たとえアイツが柔軟で身軽だとしても、けっして私たちの寝室にまで入ってくることはできなかった。しかし、ベニヤ板で仕切ったすぐ向こう側にアイツがいるのかと思うと、無意識に全身の毛が逆立った。
この一週間くらい前から、私の体調を心配して、妻は深夜私が眠りに就くまで起きてくれていた。私がようやく眠りに就くのは日の出間近だった。彼女にはすまないという気持ちで一杯だ。同時に惨めな姿を家族に晒した自分が不甲斐なくて哀しい。もしも私が猫が平気な体質で生まれていたなら、どんなに平和な日々を送れていただろう。時にそんな惨めな妄想を思い描くこともある。だがそれは所詮無理な話。私の身体には先祖代々受け継がれた猫嫌いのDNAが、全身の細胞の一つ一つに漏れなく組み込まれているのだから。妻や娘は女性特有の母性愛の目でアイツを見ることができたが、私にはどうしてもそれはできなかった。
「眠れそう?」
仔猫の足音に聞き耳を立てて、息を潜める私に妻が優しく囁いた。
「いや。板切れ一枚隔てた向こうにアイツがいると思うとな、どうしても気になって神経を休めることができない」
「最近食欲もあまりないみたいだし、ほんと大丈夫かしら?」
「食べてはいないけど、栄養は足りてると思うから心配ないよ」
妻にこれ以上余計な気を遣わせたくなかった。確かに妻にいわれなくともアイツがきてからというもの食欲はめっきりなくなっていた。その分栄養剤で補給していたがやはり体力は日に日に衰えを見せていた。
一体いつまでこんな生活がつづくのだろう。つい二ヶ月前の何気ない日常がとても幸せな日々に思え、無意識にそんな言葉を漏らしていた。恐らく私の絶望に満ちた声は傍にいる妻にはより一層辛いものに聞こえていたに違いない。
私は黙って文句一ついわず、弱音も絶対に吐かずに献身的に尽くしてくれる彼女が不憫に思えてならなかった。本来ならば私の方が妻を励まし、労わなければならないというのに、私は妻に甘えるばかりでついつい弱音を漏らしてしまうこともあるのだ。すべてにおいて私には後悔が残った。
マイホーム。
一戸建てに住むのは団地で生活したことのない妻の要望だった。
妻は閑静な住宅街に古くから佇む小洒落た洋館で生まれ、そして育った。その洋館にはもう何代も前から住み、その地域では誰もが知っている御嬢様だった。
彼女との出会いは偶然だった。今でもあの日のことはよく憶えている。
当時、私は自分のテリトリーの狭さに失望し、自暴自棄になっていた。そんな私は或る日、意を決して独り旅に出ることにした。
住み慣れた故郷から姿を消したのは、梅雨がようやく明けた日の夜明け前だったと思う。
団地を出るときは振り返らなかった。振り返るとそこに、仲間や家族が一列に並んで、旅立つ私を見送ってそうな気がしたからだ。
私の独り旅は集団就職で故郷を去るような涙を期待するものではなく、自由気ままなものだった。でも、団地から少し離れた自販機の陰に隠れて振り返ってみた。一瞬、別れを惜しんで両目一杯に涙を浮かべた仲間たちと家族の手を振る姿が見えたような気がした。驚きだった。私は一瞬目を逸らしてすぐにまた見た。しかし、そこにはもう仲間たちの姿はなかった。熱い涙が両目から零れてきた。
私は幻を見ていたようだ。私は意識的に拒んでいたものの、本心では仲間たちに見送られることを望んでいた。誰かに気づいてもらいたかったに違いない。だから涙が流れてきたのだ。
まだまだ鋭利な刃物のように尖っていた私には、素直にそれを受け止めることはできなかった。私はその時自分のテリトリーが何であるのか明白になった気がした。仲間や家族がすぐ近くにいて、困ったことがあればすぐに頼ることができるそんな微温湯のような環境が、私の心に居座るかぎり成長はないと感じた。何をしなければならないのか漠然とだったが、不確かな形となって見えはじめたように思った。
私は踵を返してまっしぐらに見知らぬ土地に向かった。行き先は何処でもよかった。
どのくらいの町を転々としたのか忘れたけど、何処までもひたすらに走った。腹が減ったときは何でも胃に詰め込んだ。飽食の世の中で、食料に欠くことはなかった。残飯を口にするのに抵抗はなかった。都市の繁華街の路地裏で、ホームレスと一緒にゴミ箱をあさったことも何度もあった。まったく手をつけてない料理が、そっくりそのままの形で捨てられていることもしばしばだった。家では食べたことがないようなゴージャスな料理もよく口にした。都会は違う。故郷の田舎で捨てられる残飯とは天と地ほどの差があった。
旅のあいだ、よく将来のことを考えた。都会は仕事に溢れている。仕事がある所に人は寄る。当たり前だが、私は都会のゴミ箱を開いてみるまで、そんな当たり前のことを考えたことはなかった。旅に出てどれくらいの月日が過ぎたのかわからないが、都会と田舎の良いところと悪いところを存分に味わった私は、次第に足先が故郷に向きなおしたことに気づいた。
両親には置き手紙すら残してこなかった。さぞかし心配しているだろう。突然姿を晦ました私を探して、仲間たちに私の行方を執拗に問い詰めたに違いない。だが、私は仲間にも何も知らせてなかった。両親は落胆し、その場に泣き崩れたに違いない。容易にその光景が想像できた。私は旅をつづける中で、一度だって実家に便りを出したことはなかった。多分、家族も仲間たちも私はもう亡くなったと考えたに違いない。
私は社会勉強を外の世界に求めた代わりに、私を生んだ故郷にその存在を消してしまったのだ。しかし、私は自分でも気づかないうちに、故郷に早く自分の存在を取り戻したいという思いはじめていた。望郷の念は日に日に募っていった。
気がつくと私は故郷のすぐ隣り町まで帰っていた。いつの間に帰ってきていたのか、今振り返ってみても空白の記憶でしかない。辿り着いたのはとても静かな住宅街だった。旅立ったときと同じく、夜明け前の静寂さが街全体を支配していた。
故郷のすぐ近くの町まで辿り着いた喜びのせいか、私の心は浮かれていた。高い所に登れば、あの懐かしい故郷の街並みが見えると思った。私は強い衝動に駆られ、高い建物を探した。どうやってそこまで登ったのか記憶がないが、私は三階建ての古い洋館の屋根によじ登っていた。
東の空が微かに白さを帯びはじめ、ゆっくりと夜の闇が解けて街並みが露になっていく光景はとても幻想的だった。私は辺りを一望した。どうやら無意識にとった行動は正解だったようだ。隣りの家の二階の屋根に、私をちょこんと屋根の上に載せている陰が映っていた。その住宅街で三階建ての建物はそこだけだった。それより高い建物は何処を見渡してもなかった。
朝日は次第に空を青く染め、遠く先に故郷の街並みが微かに見えたとき、私は屋根の上に登っていることも忘れてはしゃいで何度もジャンプし、心に満ちたぎる喜びを全身の躍動する筋肉で表現していた。心にじわりと広がる暖かい故郷の思い出が、朝日が夜中に冷え切った大気をにわかに暖めるよりも早く、私の全身に熱い血を流した。そのときだった。
「そこで何してるの!」
不意に背後から声がした。私は若い女性の声に驚きそのまま真っ逆様に地面へとすべり落ちてしまった。
目が覚めたとき、私は柔らかいベッドの上に横たわっていた。ベッドの柔らかい感触など野宿に慣れていた私の身体には、返って不快に感じられた。
「目覚めたようね。どう?痛む?」
若い女性に優しく訊ねられた。彼女の質問に応える暇を許さず、感情が思考を支配した。
美しい。タイプだ。
「まだどこか痛むのね?」
「いえ。どこも」
クールに応えた。
気取ることに神経を集中させていたため、そう応えるのが精一杯だったが実際何処も痛みはなかった。
彼女との偶然な出会いがなければ、私は今こうして不眠症に悩まされることもなく、実家の団地で鼾を掻いてぐっすり眠っていたかもしれない。
奇妙な出会いを経て、私たちは自然に心惹かれていった。彼女にプロポーズしたのは、出会いから三年後のことだった。
自然な成り行きで結婚した。同時に新居を構えた。中古物件だったが妻は大いに満足してくれた。結婚して二年後に娘を得た。平穏な日々がゆっくりと私たちの歴史に刻まれていった。
ずっとそうなるものだと思っていた。
しかし、未来は予想もしない方向に向きを変えてしまった。
たった一匹の仔猫が現れたことで、私たち家族の未来はぼろぼろと崩れはじめた。
「あなたの体調が良くなるなら、ここを手放して、御実家で同居させて頂きましょうか」
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