「ええ、そうですけど、どうして私の名前を? 以前何処かでお会いしましたか?」
「なんいよんでぇ! うぢよ! うぢぃ! へへへ。もう忘れだんげ? みづごよ! み、づ、ご! へへへ。あんだ、うぢのごど憶えどらんのげ? へへへ」
「は?」
みずご……?
とても怖い響きは老婆の濁った声に一層おどろおどろしく聞こえた。こんな不気味な名前の知り合いはいない。年齢からして亡くなった母の知り合いなのかもしれない。夕闇に何を思って笑うのか、老婆を人と思いたくなかった。その名の通り、この世に生まれることなく死んだ水子の亡霊であれば怖さは半減したかもしれない。老婆の親は何を思って我が子にそんなおぞましい名前を付けたのだろう。私は老婆の生まれに人間の嫌な影を思い描いた。
水子……
知人の中には私のように妻子ある人の子を身篭った者が何人かいた。彼女らは何の躊躇いもなく、お腹の子を下ろした。平然と殺人を語る彼らに母親になる資格がないのは明らかだった。女のままでいることに執着した彼らには血も涙も通っていなかった。愛を身篭ったとき、私に彼女らのような迷いは一切湧き起こらなかった。多分、母の姿を見ていたからだと思う。女手一つででも十分に子供を育てられる。私は我が身を通して学んでいた。不意に過ぎった嫌な気持ちを振り払うかのように私は老婆に訊ねた。
「あのぉ、母のお知り合いでしょうか?」
「いんや、うぢゃ、あんだの母ぢゃんのごどはよお知だん」
とすると、もしや! この人は父の知り合いなのかも知れない。もしそうなら母と別れた後の父のこと、それに埋葬されたお墓が何処にあるのかも知っているかもしれないわ!
「じゃあ、父の!」
次の瞬間、私は幼い子供に舞い戻っていた。逸る気持ちに舌が縺れた。
「ええ、ええ、へへへ。あんだの父ぢゃんはよお知っどらいなぁ。へへへ。いやぁ、久じぶりじゃなぁ。まごの迎えでヂラァッど見だどぎは、人違いがど思だげど。やっばりあんだやっだんじゃなぁ。へえ、何時もんでぎだんが知だんが、元気にしどっだげ? へへへ」
やっぱりそうだ!
マコちゃんのおばあちゃんが父の知り合いだったなんて、
こんな偶然ってあるのかしら!
心が弾んだ。感動に全身の毛という毛が逆立った。マコちゃんのおばあちゃんのことを私は憶えていない。恐らく物心つく前に父に連れられて何度か会ったことがあるのだろう。私は記憶に留めていなかったのに、この老婆はちゃんと記憶に焼き付けてくれていたのだ。そう思った途端、感謝に目頭が熱くなり、それまで抱いていた老婆への厭らしい偏見が綺麗に浄化されていった。人は見かけによらないもの。今はマコちゃんのおばあちゃんが父を知る唯一の鍵に見えた。
母は命尽きるその一瞬まで父を愛していた。父と同じお墓には入れないことはわかっていたけど、死の間際に改めてそれを自覚したときは相当ショックだったろう。母はせめて父の傍で永久にいようと願った。この町に越したとき、父のお墓を探してお寺を幾つも訪ねたけどどうしても見つけられなかった。何年か前に新しく県道が走ったお陰で、古くからの住民は立ち退きを余儀なくされ、入れ替わって新しい余所からやってきた人たちで占めるようになったという。
父方の祖父母の家もこの地に埋葬された。広い日本庭園にあった大きな二本の松の緑を憶えている。青空に映えたそれは遠く離れたところからもよく見えた。あの大きな松の木はどうなったのだろう? 記憶を辿って訪ねた祖父母の家は跡形もなくなり、ただ大きな道路が殺風景な風景を見せるだけだった。
この町にいた父方の身内も年配の者は皆他界し、私と同世代の者たちは家を売ったお金で余所の土地へと移り住んでいた。この町にはもう私と同じ血を流す者はいなかった。町は昔を知らない人々によって新たしい流れが作られていた。三〇年前の私の想い出に見える光景はほとんどなく、町外れの広大な無花果畑の緑の森だけが遠い昔を偲ばせた。
もう昔を知る人には出会えないのだと諦めていただけに、この老婆との出会いは嬉しかった。この地に棲みついた土地神様が私の願いを聞き届けてくれたのだと思い、心の中で手を合わせて感謝した。ようやく肩の荷を降ろすときがきた。そう思った途端、胸がカッと熱くなり、堰を切ったように涙が止めどなく流れだした。
「ち、父は、母と別れた後もこの町で、一人で?」
声が震えて上手く言えなかった。鼻水を啜る余裕すらなかった。
「ママァ! だいじょうぶ? なんで泣いとん?」
突然声を出して泣き崩れた私を心配して、愛が駆け寄った。両手でギュッと抱き寄せ、愛の胸元に耳を押し当てると敏速な鼓動が小さく聞こえてきた。今こうして愛の鼓動を聞けるのも、私を生んだ父と母がいたからだ。二人がいなければ愛はこの世に生まれ出ることはできなかったのだ。生命の伝道の証が私の腕に包まれている。私は感動に全身の細胞が打ち震えた。
「うぅうん、何でもないの。ママねぇ、嬉しいの。嬉しくて嬉しくて、それで涙が出てきたの。悲しいからじゃないんだよ」
「ほんとにだいじょうぶ?」
答えになっていない私の説明に、首を傾げる愛の小さな指先が頬に伝う涙の筋を拭った。
「うん。ほんとに全然平気よ」
まだ心配でいる愛に微笑んで見せる。それは偽りではない、本当に心から湧き起こる喜びの笑みだった。
「さぁ、マコちゃんが待ってるよ。マコちゃん愛ちゃんにお話しがあるんでしょ。ママはマコちゃんのおばあちゃんとお話があるから」
そう言って愛の背をポンと叩いて、元気良く送り出した。
「すみません。わたし、父のことをあまり憶えてないもので、おばあちゃんのように父を知ってる方に会えただけで胸が一杯になっちゃて」
「おばあぢゃん?」
「ええ」
突然、マコちゃんのおばあちゃんが巻き舌で聞き返してきた。次の瞬間、目つきが鋭く変形したかと思うと、眉間に皺を寄せて鬼の形相で睨み付けてきた。
「おばあぢゃんで、誰のごどいよんで? ええ? あんだ、うぢのごどいよんげ?」
「え、ええ。今、おばあちゃん、わたしの父を知ってるといわれたから」
老婆の一段と喉を擦り切らせて捲くし立てた声に気圧され、本能的に後退りした。なぜ突然老婆が怒りはじめたのか理由がわからない。一体何が起きたの? マコちゃんのおばあちゃんが父のことを快く思っていなかったとしたら。もしそうだったら私の早とちりで気に障ることを言ってしまったんだわ。
「なんいよんで、あんだっ! なんでうぢが、あんだにオバアゆわれないがんので! うぢがそんなにオバアに見えるんげ! まごの見よる前でよおゆうでぐれだのぉ!」
老婆は完全に理性を失っていた。内に溜めた怒りを今にも爆発しそうな一触即発状態だった。私はただただ理由もわからず怯えるしかなかった。
「え、あの、今もほら、マコちゃんのことお孫さんだっていわれましたよねぇ? だから、わたし、てっきりマコちゃんの実のおばあちゃんだと思って。マコちゃんのおばあちゃんじゃなかったんですか? おばあちゃんの気に障ることをいったのなら謝ります。ごめんなさい」
「なんじゃあや! どごまでうぢをバガにしだら気がすむんで! まごはうぢのごぉじゃ! うぢがお腹痛めで生んだごぉじゃ!」
ええっ!
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