驚きのあまり、思わず絶句してしまった。孫、まご、マゴ、マコ。あ! 極度に声がしゃがれ濁音に聞こえていたせいで、私は勘違いしていたようだ。マコちゃんのママが、このおばあちゃんだったとは。今やっとこの老婆が怒ったわけが理解できた。しかし、驚きだ。よぼよぼで蹴躓けばポキッと簡単に骨が折れそうなくらい痩せこけているのに、見かけによらず体力はあるのかもしれない。一体何歳で生んだんだろう?
確かマコちゃんには兄弟はいないって言ってたから初産だと思うけど、私が愛を生んだ歳ですら初産としては遅い方だったのに。よく死ななかったわね。まるで旧約聖書の一場面のようだ。ママがおばあちゃんってことは、パパもおじいちゃんのはず。愛の話だとマコちゃんはおばあちゃんとおじいちゃんの三人暮らしだから、あ、やっぱりそうだ!
マコちゃんのおじいちゃんがパパなんだ。マコちゃん、自分のパパもママも、おじいちゃん、おばあちゃんくらいの歳だから、お友達にはそのことを知られたくなかったんだわ。子供心に恥ずかしくて吐かなくてもいい嘘を。私、マコちゃんのその気持ちわかるような気がする。
私も子供の頃、両親が離婚していることは友達には知られたくなかった。両親の気持ちも知らず、離婚は恥ずかしいことだと決め付けていた。身内の恥はできることなら他人には知られたくないものだ。マコちゃんのママもその歳で生んだことを恥ずかしく思っているのだろう。そのことをマコちゃんはわかっているから、だからこそ吐かなくてもいい嘘で家族を守ろうとしたんだわ。
ああ、何て失礼なこと言っちゃったんだろう。初対面なのに悪い印象を与えてしまった。相当怒ってるから許してもらえないかも。どうしよう、このことで愛が苛められたりしないかしら。兎に角謝らなきゃ!
「どうも申し訳ありませんでした。わたし、何も知らなかったものですから、つい。ほんと心からお詫びします」
素直に自分の過ちを認め、深く頭を下げた。先刻感動で流れた涙はすっかり退いていた。
「謝っでもうぢゃじぇっだい許させんげんな! やぁれよぉ、まごやぁ、可哀想になぁ。あんだ、母ぢゃん、オバアゆわれだでぇ。うぢがオバアみだいなげん、学校でイジメられよんじゃないんげ? 堪えてよぉ、嬢や! 母ぢゃんなぁ、あんだを笑うごぉらぁは堪えせんげんな! あんだぁ、よお聞ぎや! ごのごはなぁ、うぢどあんだの父ちゃんの間にでげだごぉで。あんだの腹違いの妹じゃ! 血ぃ分けだ妹を、あんだは笑い者んするんげ。ええ、やぁれ、おどろしやのぉ、それでも人間がなぁ!」
え?
私の父、ってもうとっくに亡くなってるのに何を言ってるのかしら? 私のこと余所の誰かと間違ってる? どう考えてもそうとしか思えないわ。ああ、やっぱりこの人、頭おかしいんだわ、ど、どうしよう! おかしな人と関わり持っちゃった。だからよく知らない人とは付き合いたくなかったのよ。兎に角もうこれ以上関わり合わないようにしなきゃ。
「わたし、父のことはほとんど憶えてないんです。母からも随分前に亡くなったとしか聞いていなかったもので」
「あんだ、バガじゃながろが!」
「バ、バカ?」
つい失言してしまったとは言え、バカと言われる筋合いはない。途端に今まで押し殺していた怒りが一気に噴き出してきた。それこそ低姿勢に徹した自分がバカらしく思えた。
「あんだの父ぢゃんはなぁ、へへへ」
不気味な笑みを浮かべる老婆を、街灯の薄明かりがその場に浮かせて見せた。声を潜め、溜めを作って搾り出す響きに忌み知れぬ不安が走った。
「まだ死んでないんじゃ! ぢゃあんど生ぎどる。あんだの母ぢゃんが、なんで死んどるゆうだがわがるげ?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。でもすぐに頭がおかしい老婆の戯言に終わりがないことを悟った。この人とは絶対に関わってはいけない。早くこの場から離れなきゃ! ただそれだけが頭を駆け巡っていた。選りにも選って愛が仲良くなった子の親がこんな人だったなんて。経済的に思わしくない老婆が、今後私たち親子に因縁づけてくるようなことにでもなれば大変。どうしよう!
「あんだの母ぢゃんはなぁ、父ぢゃんを生殺しにしだ血も涙もない女よ。あんだもその鬼の血が流れどんよ。やぁれ、おどろじやのぉ、日野のオバアそっぐりじゃ!」
血の気が退き悪寒が背筋を駆け抜けた。もう何も聞きたくない。母も苦労したのに、そのことも知らず侮辱されるのは許せない。なぜこの見ず知らずの老婆にここまで辛辣な言葉を受けなければならないのか? 怒りで涙が流れた。先刻とは違う冷たい涙だった。
「なん泣ぎよんで? 母ぢゃんのほんどのごどいわれで泣ぎよんげ? あんだの母ぢゃんはなぁ、ログな女じゃながっだんじゃげん。うぢの父ぢゃん、苦労しだんでぇ。どんだげ苦労しだが、あんだらは知らまいがな」
怖い、この女が怖い。この女がいるこの町が怖い。私がいるここが怖い。膝がガタガタ震えた。噛み締めた奥歯が擦り切れそうなくらいカチカチ音を立てた。私はどうにかなりそうだった。理性を保つにもどれほどの余力もなかった。夜闇に愛が吸い込まれていくのが見えた。暗い暗い、光を寄せ付けない闇の渕に。
「ママ!」
朦朧とする意識の中、愛の呼び声に目の前が開けた。
いけない! よく知りもしない老婆の言葉に惑わされてはダメ! 自分に渇を入れ、大きく深呼吸をする。この老婆の話をまともに聞いちゃダメだ! どこにも真実なんてないのよ! 母が愛した父がこんな女を選ぶはずないじゃない! 母ははっきり父はもうこの世にいないと言った。私に嘘を吐いたとでも言うの。何のために? 母は父を愛し、だからこそ死に場所としてこの町を選んだんじゃない。父のお墓がこの町の何処かにあると信じていたからこそ、ここの土で埋葬されることを望んだのよ。でも……。不意に心の奥底から得体の知れない黒い影が這いずり上がってくるような気がした。どうしたんだろう? 母を思い出そうとすると、なぜかこの老婆の半生を思い描いてしまう。
嫌ぁ!
き、消えて!
私の前から消えていなくなって!
記憶に残らず全部消えて!
そのとき、私を睨みつける老婆の瞳の中に、亡くなった母が見えた。私の心の悲鳴を聞きつけ、土の中から母が駆けつけてくれたんだわ。
お母さぁん! 今日というこの日を消して! お願いだから私を助けて! あの日のように、あの日、お父さんの写真を一枚も残さず灰にしたように。お母さぁん! 私、お母さんのためにお父さんのお墓を探したのよ。お母さんに喜んでもらいたかったから。でもね、いくら探しても見つからなかった。お母さぁん! お母さんはこの町の何処かにお父さんのお墓があるのを知ってたんだよね? ね? お母さぁん! お父さんってもう死んじゃったんだよね? ねえ、お母さぁん? どうして? どうして黙ってるの? ねぇ、お母さぁん!
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