「おい、母さん! 目を覚ましたぞ! 早くきなさい」
懐かしい父の母を呼ぶ声が聞こえた。
「ああ、よかった!」
駆け寄った母が私の手を強く握り締めて涙を流している。
ここは何処だろう。父さんも母さんも、一戸建ての我が家には一度だってこようとしなかったのに。今日はまたどういう風の吹き回しなんだ?
「もう何も心配することはない! よく頑張ったな。ほんと、よく頑張ったよ!」
父も私の手を握り締めてきた。さっぱり両親のいっていることがわからない。
「よくきてくれたねー。あんなにここにくるのを拒んでたのに」
私は両親に微笑みかけた。素直に我が家にきてくれたことが嬉しかった。
「まだ意識がボウッとしてるんだね。ここはおまえの家だよ。おまえが生まれ育った団地だよ」
母はもう泣いてなかった。私はどうやら実家につれてこられたみたいだ。目覚めたら実家に帰ってただなんて。
「夢じゃなかったんだね」
「そうだよ。ここは団地だよ。もう恐ろしいことは起こりはしないよ」
母の声を聞きながら、静かに瞼を閉じた。そうか、もうアイツもいないんだな。アイツさえいなければいいんだよ。これで家族は幸せになれるんだ。
私は妻と娘の具合が無性に気になった。
そうだ、妻はどうした!
娘はどこだ!
私は目をカッと見開いて、横たえていた身体を起こそうとした。
「どうしたんだい突然! まだ容態はよくないんだからね。横になって休んでなきゃダメだよ」
「家族は! 妻は! 娘はどこ!」
私は言葉にならないままに叫んだ。父と母が視線を背けた。私は嫌な予感を感じた。
「気を落とすんじゃないよ。いいね」
「何をいい出すんだよ」
私は狼狽した。
「孫はおまえのすぐ傍で丸くなって死んでたそうだよ。何にも食べてなかったんだね。骨と皮だけになって目を見開いて死んでたそうだよ」
頭の中が真っ白になったかと思うと、突然激流が流れ込んだかのように様々な情景が頭の中でうねりはじめた。
そ、そんな馬鹿な!
あの子が死ぬはずないだろっ!
嘘だぁ!
「変な冗談はよしてくれよ、母さん。あの子が死ぬわけないよ。あの子はね、ぼくの傍にはいなかったよ。仲間に起こされたとき手探りで探したんだ。でも、いなかった」
「おまえを起こす前に孫は外に移されたんだよ」
全身の筋力が地球の引力に耐えられないのを覚え、その場に崩れ落ちた。自分で震わしてるわけではないのに、奥歯はカチカチと音を立てて、全身は激しく震えていた。
「う、嘘だろ」
「辛いけど、本当だよ」
母は涙を一杯に溜めた目を向けていた。
息苦しい。とても息が苦しい。頭もどうにかなりそうだ。そんな話をどうして信じられるというんだ!
「妻がぼくと娘を捨ててからというもの、あの子はずっとぼくの傍にいた。なのに……」
両目から涙が吹き出してきた。
「ああ、おまえはまだ知らなかったんだね」
「何がだよ? 妻の居場所がわかったってのかい。ねぇ、母さん! 彼女はどこにいるの!」
私は母に圧し掛かるように縋り寄った。
「おまえ、今、おまえと孫を捨てたといったね?」
「ああ。悲しいが彼女はぼくたちを見捨てたんだ」
「可哀相に。おまえが母さん不憫でならないよ」
母が涙を袖で拭った。
「どういうこと?」
「あの子はね、おまえと孫を見捨てたんじゃなかったんだよ。働けないおまえに代わって、おまえと孫にひもじい思いをさせないために必死に働いていた。一度家に同居の相談できたことがあったよ。あの子はおまえを元の身体に戻すために必死だった。けっしておまえたちを裏切るような子じゃなかったんだよ。あの子は軒下にいたんだよ」
「軒下? どうしてまたそんなとこに。なぜ家の中に入ってこなかったんだ!」
「ちゃんと家には入ってたんだよ」
母がそういったとき、それまで静かに聞いていた父が涙声でいった。
「だから、猫のいる家は早く出るようにいったんだ!」
父はそういうと顔を真っ赤にして怒りを押し込めた。
「軒下でね。あの子は骨になってたよ」
その瞬間私は意識が遠のいて行くのがわかった。遠くで父と母の声が微かに聞こえていた。
「今も昔も猫はネズミを獲って食うんだ! だから一戸建てに棲みつくとき反対したんだ! 強引にでも一戸建てに棲まわせないように食い止めるべきだったんだ!」
「すみません! わたしがこの子を甘やかして育てたばっかりに、取り返しのつかないことをしてしまいました」
「ネズミはネズミらしく集団で生きなければならないんだ!」
妻と娘を失って、もうどれくらいになるんだろう。
二人を亡くしたショックで気が狂れたと思われ、両親と仲間たちに半ば強制的に病院に入院させられた。
ここでの生活は快適だ。
ペットなんて絶対に侵入してこない。建物の構造も団地によく似ている。食事は決まった時間に毎日三度用意してくれる。身体がどこも悪くないから、病院の敷地内なら散歩も自由だ。妻と娘が亡くなる前、もう随分前のことのように思うが、こんな生活に憧れたこともあった。
昼間は中庭の陽が射す場所で昼寝をして楽しんでいる。こんな生活をどのくらいつづけているのか本当にわからない。この先もどれくらいこんな生活を送るのかわからない。
ナースや患者さんが中庭にいるときなど、タヌキ寝入りでその人たちの会話に耳を澄ますことがある。たまに私の噂話をしている人たちに出会うことがある。不思議なことに、私をちらちら覗き見ながら、皆んな同じことを話しているのはなぜだろう。
「あそこの陽だまりでお昼寝されてる患者さん。あの方、御自分のことをネズミだと思い込んでるのよ」
「あ、その噂聞いたことがあります。あの方でしたか、中央病院のネズミ男さんって」
毎年毎年、こんな会話を耳にする。おかしな話だ。皆んな何を考えているのだろう。まるであたかも自分たちは人間であるかのような話振りだ。鏡に全身を映したことがないのだろうか。お尻からひょろりと垂れた尻尾が見えてないとはいわせないぞ。
この病院のドクターもナースも皆んな私を人間だという。何をとぼけたことをいってるのか?
どこからどう見ても、私は正真正銘のネズミだ。人間だと思い込んでいるあの連中は、どうやら相当に頭がいかれてるみたいだ。
もう随分と長い間人間の生活に合わせて生きてきたとはいえ、所詮ネズミはネズミでしかない。いくら人間と共存したからといって、ネズミが人間になれるわけがない。
可哀相に……。
そんなに人間だと思いたいのなら、一度猫を抱いてみるといい。
私はもう懲り懲りだ。
了
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