あっ、この香り!
バスを降りたとたん、午後の優しい陽射しが降り注いできた。
懐かしい故郷の香りが仄かに漂いを見せる。
由美子はその香りにしばし足を止め、懐かしい日々を思い浮かべた。辺りに立ち込める懐かしい香りは、実家に近づくほど濃くなっていく。
小春日和のその日、由美子は友人の結婚式に出席するために故郷に帰ってきた。3歳になったばかりのゆうを連れて帰郷したのは、まだ数えるほどしかない。昨年のお盆に家族三人で帰郷したのが最後だった。
結婚式は明後日の日曜日の午後1時から開かれることになっている。由美子が友人の結婚式に出席するのはこれで8度目だった。過去7回の結婚式はどれも東京で行われていた。東京で式を挙げた友人たちは、大学や職場で知り合った者ばかりで、皆東京出身者だった。東京の短大に進学しそのままその地で就職を決めた由美子が、11月の上旬に故郷を歩くのは10年ぶりだった。
由美子が帰郷を実感したのは、バスを降りたときだった。東京の自宅で帰省の準備をしているとき、昔懐かしい故郷の思い出がずっと脳裏を駆け巡っていた。でも身支度や家事、それにゆうの世話で、ゆっくりとその心の温もりに漬かることはなかった。ゆうは田舎の祖父母に逢えるのを、帰郷する何日も前から指折り数えて楽しみにしていた。夫の邦明が式に出席するのを許してくれたのは意外だった。
邦明は今年、もう7度も結婚式に招待されていた。しかし、それは彼の親しい友人たちではなく、どれも仕事上の希薄なものだった。邦明は結婚式の招待状が届く度に小言を漏らした。
「あーあ、どんどん小遣いなくなってくよ。仕事上の付き合いで出席しなきゃなんないなんてな」
由美子はこの言葉が以前からずっと気になっていた。邦明の手取りは月に約20万そこそこ。決して少なくはないが多いと満足できるものではない。生活費やローンの返済で、収入のほとんどは消えていた。家計を遣り繰りする由美子には、夫の気持ちが痛いほどわかった。もうすぐ30になろうという夫は、僅かに残ったお金を将来のために毎月貯金していた。なのに、そのお金が将来を案じる彼の思いとは裏腹に、他人事に遣われてしまうことに強い憤りを覚えた。
由美子には邦明の悲痛な嘆きとも聞こえるあの小言が、結婚式の招待状を受け取ったそのときから、耳元でエコーのように繰り返し鳴り響いていた。彼の気持ちを察すれば簡単に言えるものではなかった。家計を遣り繰りしている由美子には迷いがあった。毎年お正月は邦明の実家へ、お盆は由美子の実家へと家族三人で遊びに行くのが恒例になっている。だが今年のお盆は家族三人で由美子の実家に帰省することができない状況にまで、家計は追い詰められていた。
夫が気にしているのはお金の問題だけだと思う。でもこのところの彼の様子は、それだけではないように思えた。結婚式の招待状のあの仰々しい紙包みを見るや否や、苛立ちの感情を露に乱暴に手で包装紙を引き破る様子から、度重なる結婚式の招待に、金銭的な問題以上に彼の心を圧迫する何かがあるのは確かだった。
それが何なのかはわからないけど、そんな彼が果たして素直に出席を許可してくれるだろうか。気を遣ってばかりの彼のことだから、許可してくれるとなれば多少の小遣いを持たせようとするはずだ。でも私の知る限り、彼にはお小遣いを持たせてあげられる余裕はないはず。由美子には邦明の心中を察すればこそ、今回の結婚式に出席することが忍ばれた。しかし、その思いとは反対に出席したいという強い願望が大きく働いていた。
由美子はこの結婚式だけはどうしても出席したかった。出席したいという軽い気持ちではなく、出席しなければならなかった。それは彼女が以前から、それも邦明と出逢う何年も前から決めていたことだった。
由美子にそう思わせた友人は神崎真理といい、二人は高校の三年間、同じクラスメイトだった。真理は由美子とは違い、高校卒業後は地元のコンピュータ専門学校へと進み、就職も地元でしていた。
今でこそ仲の好い二人でいるが、高校の三年間は親しいというわけではなかった。二人の心の距離が縮まったのは高校を卒業して、二人の間に物理的な距離が大きく隔たったことによって、お互いに理由もわからないままに親しくなっていった。
飛行機で羽田を発ち、故郷の空の玄関に到着しても由美子の心はまだ落ち着くことはなかった。空港内では地元の人間以上に旅行者やビジネスマンといった、外部の人間の方が多く見受けられたからだ。由美子は荷物を拾い上げると、物珍しげに空港内に目をやるゆうの腕を引いて、足早にバス乗り場へと向かった。
空港からバスに乗るのははじめての試みだった。大学生の頃から、帰郷するのは必ず最終便と決まっていた。だから必ず仕事を終えた家族が空港まで車で迎えにきてくれていた。しかし、その日は生憎昼間の到着で、由美子とゆうを迎えにきてくれる者はいなかった。
ほどなく由美子たちはバスに乗りこんだ。しばらく走ったところで、観光客に見送られながら電車に乗り換えるために下車した。駅で切符を買い、ホームでゆうと二人でベンチに腰掛けて電車を待っているとき、不意に由美子の意識は緊張感を解かれた。懐かしい言葉の響きが、都会の生活に浸る由美子の意識を思い出の世界へと誘い込んだ。
振り返ると一人の老婆が笑顔でゆうに話し掛けていた。老婆はゆうに歳は幾つかと訊いていたが、ゆうはその方言交じりの問いかけが理解できなかったようだ。何も応えられないでいるゆうに代わり、由美子が老婆に応えた。そして電車が駅にやってくるまでの間、由美子は老婆と会話を楽しんだ。電車がやってくると、由美子は老婆に軽く会釈してベンチを離れた。
三両編成でドアも片開きの小さな電車は、人口の少ない街ならではの乗り物だった。電車に乗り込むと、乗客は全くといっていいほどなかった。昼間の東京では絶対に見られない光景が、由美子にはとても気持ち良かった。まるで別世界の乗り物に乗り込んでしまったのではと、錯覚を起こしてしまいそうになる。そんな人気のないガラ空きの電車がゆうも気に入ったようだった。由美子は静かな車内に、都会の喧騒から離れ、田舎の長閑な時の流れを見ていた。
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