女の話に掌が血の気を失って痺れた。まさか、駅前の弁護士の後藤先生って。母の知り合いに頭のハゲた後藤というおじいちゃんの弁護士がいる。その先生とは昔から年に何度か会っていた。母とはとても仲が良く、気安くおじいちゃんと呼んでも嫌な顔一つしなかった。私も母を真似てそう呼んでいたけど、子供心に奇妙に思った。
母はなぜ先生と呼ばなかったのだろう? それに後藤のおじいちゃんはおじいちゃんと呼ばれるほど年老いてもなく、母とも親ほどの歳の差はなかった。母がこの町に越した理由の一つに後藤先生の存在があった。母は横浜の瀬川の祖父宅を引き払う手続きや、この町に越したときの一切の手続きを後藤のおじいちゃんに頼んでいた。母が亡くなったとき、諸々の手続きをして下さったのも後藤のおじいちゃんだった。
日野のおばあちゃんも後藤先生を頼っていたとは。女の話を鵜呑みにはできないけど、日野のおばあちゃんも先生と同じくらいの年齢だったのではないだろうか? もし女の言うようにおばあちゃんと先生が昔そういう関係だったなら……
「オバアがお祖父さんど結婚しだんも、無理やり親が決めだらしいわい。嫁入り前に子ぉ作っだわけありじゃげん、贅沢いえまいがな。うぢゃ知だんでぇ、オバアの子ぉが生ぎどんやら死んどんやら。お祖父さんは優しい人やっだげん、あんなオバアでも情け感じだんじゃわい。ほやのに結婚しでもなぁ、お祖父さんにも優しせんがっだど。手ぇ一つ握らせんがっだゆうで。ほんなもんじゃげん、お祖父さんどうぢの母ぢゃんは仲ええなっだんよ。
遺言にはなぁ、ちゃんど父ぢゃんにもやるゆうで書いどるらしいわい。オバアど父ぢゃんは血ぃ繋がっでながっても、親子じゃげん財産は貰えろ? ほじゃのにあのハゲが父ぢゃんに金くれんのやげ。うぢが父ぢゃんの面倒看よるげんくれゆうでもな、追い払うんじゃげんな。あんだどう思うで? 悪い男よ、あのハゲは。父ぢゃんが酒でもう頭がおかしいげん、奥さんに全部やるんじゃゆうんで。なぁ、あんだどう思うでぇ? 遺書にそう書いどるんやど。あのクソババアがいらんごどせんがっだ良がっだんよ。ほんど、悪知恵ばぁっがり働いで、死んでもうぢらにイケズするんやげんなぁ。
あんだや、あんだの母ぢゃんは父ぢゃんの面倒一ぉつも看んのに、籍に入っどるゆうだげで財産じぇんぶ貰えるんはいかまいがな。あんだ、うぢも欲しい。あんだらがおらんがっだらうぢらに貰えるんじゃないんげ? なぁ、なんでもんでぎだんで! あんだなんが、帰っでごなんだらよかっだんよ! うぢ、あんだも、あんだの母ぢゃんも大嫌いじゃ! あのハゲの弁護士も、死んだクソババアもじぇえんぶ大嫌いじゃ! あんだ見よっだら母ぢゃん苛めよっだあの鬼ババア思い出すでや! よぉ似どらい。あんだら、なんしにもんでぎだんで! 父ぢゃんの財産が欲しいげんもんでぎだんげ! 家には誰もおらんがっだみだいやげど、あんだの母ぢゃん働きよんげ? まだ仕事がらもんでないんげ?」
厭らしい目の老婆はうんこに集る蛆虫だった。
「母は愛が生まれた年に亡くなりました。この町で」
「ええ! ほんならうぢ、父ぢゃんの嫁になれるんじゃな? うぢゃ頑張っだんじゃげんなぁ! 父ぢゃんに嫌われんように頑張っだんじゃげん! なぁ、あんだぁ、うぢえらがろう? えらいゆうでや! あんだの母ぢゃん、もう死んでおらんのやっだら、うぢ父ぢゃんの籍に入っであんだの母ぢゃんになるんじゃげんな、子供は母ぢゃんのゆうごどはじぇんぶ聞がないがまいがな。うぢゃ、もう、あんだの母ぢゃんなんじゃげん。日野の財産いっばい貰えらいなぁ? あんだも貰えるけど、うぢらのほうが多かろう?
やぁ、うぢ、今日あんだに会うで良がっだぁ! ええごど聞いだ。籍入れるんは早いほうがよがろ? もう今の時間役場終わっどるげん、明日の朝一番に行がないがんわい。あぁあ、これで死んだごぉらぁも成仏できよ。へへへへへ」
一瞬見せた女の悲しい目に母性が見えた。女が言った死んだごぉ、成仏という言葉に女の不気味な名前が絡み合う。誰からも望まれずこの世に産まれた女は、過去にどんな悲しみを産み落としてきたというのか。
「最初のごぉは中学校卒業してちいとしででげだわい。父ぢゃんによぉ似た男前やっだんでぇ。げど……、あのご、野良犬に喰われてしもだ。喰われで死んだんよ。
父ぢゃん、もうその頃は酒で頭おがしなっどっだげんな、子供が死んでもなぁんも泣がなんだわい。げど、うぢゃ泣いだで……。何日も何日も泣いだ。ほやげどなぁ……、またお腹にごぉがでげだら、死んだごぉのごどなんかどうでもええなっだ。ありゃ不思議なもんじゃわい。うぢは今度は絶対に犬には喰わさんように、お腹を大事に大事にしだんでぇ。ほやのになぁ、あんだ、うぢ、バチが当っでなぁ。へへへ。最初のごぉが焼餅焼いだんじゃわい。母ぢゃん取られる思で、お腹のごぉ、生まれる前に流れでしもだ。へへへ。もう何個流しだろか……? まごが生まれるまでじゃげんなぁ、かれごれになるじゃろなぁ。
父ぢゃんはもうわげわがらんよぉになっどるげん、おまげに男じゃげん強がろう? 我が子が死んでも、なぁんも思わんみたいじゃわい。うぢはやっぱりお腹傷めだげんなぁ。可哀想やっだげん、流れだごぉは全部無花果畑に埋めでやっだんよ。死んだごぉらぁも、母ぢゃんの傍がよかろ?
ああ、ほうよほうよ! あんだなぁ、不思議なこどがあるんでぇ。教えたぎょか? あんな、流れだごぉらぁをなぁ、埋めだ傍の木はなぁ、次の年にいいっぱい実ぃづげでなぁ、それがまた太うって甘いんやがな。うぢの畑で獲れた無花果は市場でもえらい評判でなぁ。ええ値で売れだんでぇ。なぁ、あの流れだごぉらぁもえらがろう。死んでも親孝行しでぐれるんじゃげんなぁ。ほうよ、あんだもあのごらぁの姉ぇぢゃんになるんじゃげん、褒めてやらないがんわい。よぉ頑張っだゆうで褒めぢゃっでやぁ。うちゃ思うんよ、流れだあのごらぁが無花果の実ぃになっで生まれでぎだんやど……。あのごらぁもほんどは生まれでぎだがっだんで。生まれで父ぢゃんがらいいっばい財産貰いだがっだんよ。可哀想なごどしだわいなぁ。
あの鬼ババアが弁護士のハゲにゆわんがっだら、うぢらももっど早ように大金持ぢになれだのになぁ……。うぢ、あのオバア嫌いじゃ! うぢの母ぢゃんをイジメよっだあのオバアが大嫌いじゃ! 父ぢゃん追い出しだオバアが大嫌いじゃ! あの鬼ババアはお祖父さんにも、父ぢゃんにも、なあんもやらんがっだんで。後入りのぐぜに日野の財産じぇんぶ自分のもんにしだんじゃげんなぁ。度ゲヂの度ゲヂよ。ほやのに、あんだやあんだの母ぢゃんのごどはよお可愛がりよっだわいなぁ。何であんだらだげなんよ? あの鬼ババア、あんだにはよぉ小遣いくれよっだろ? うぢゃこっそり見よっだげん知っどるで。そういやぁ、あのオバア、うぢがあんだど一緒に遊びよっだらよぉ怒りよっだわいなぁ。うぢゃまだ憶えどるで。うぢのごとまるで犬畜生みだいに追い払うでなぁ。うぢのごど何じゃ思どんで! ユミぢゃぁん、そのごの傍に寄られん! ものゆうだらいがんでぇ! で、なにいよんで」
その瞬間、おぼろげだった日野のおばあちゃんの顔が鮮明に蘇った。
そう、おばあちゃんは私があの子と一緒にいると、よくそう言って追い払ってくれた。あの子は何かにつけて私にちょっかいを出してきた。おばあちゃんからお小遣いを貰うと、乞食のように纏わりついてきて、少しでも恵んでやらないと翌日学校で私と母の悪口を言いまくった。私は大嫌いだった。毎日同じピンクのワンピースで、臭くて傍に寄られるのも嫌だった。死んだらいいのにといつも思っていた。でも、まだ生きてたんだ……。
確かそう、あの子の名前はミツコだった。ミツコがミヅゴなのね。ふふふ、ミヅゴじゃないでしょ、おまえは水子でいいのよ。生まれちゃいけなかった子なんだから。この世を見てはいけなかった子なんだから。どうしてお腹の中にいるときに流れなかったんだろう? 日野のおばあちゃんはどうして生ませたんだろう? もし知っていたら殺していただろうから、きっと生まれるまでわからなかったのね。ミツコの母親、この女も強かな女。日野のおばあちゃんたちの夫婦仲が悪いのを好いことにおじいちゃんに近づいた。全ては日野の財産を独り占めしたいがために。下女なりに悪知恵を働かせたのよ。
ミツコは母親以上に強かだ。生まれてこられただけでも有り難いのにそれに満足せず、父やおばあちゃんの財産まで根こそぎ吸い尽くそうとしてる。この女が報われるとは思えない。たとえ法が許したとしても、神様は決してお許しにならないだろう。
お母さん! 今日、この女に色々聞かされて私はショックで気が狂いそうになったけど、最後まで話に付き合って良かったと思ってるわ。お母さぁん! ありがとう! お母さんは知ってたんだねぇ、おばあちゃんのこと。だからお日野の籍からは抜かなかったんだね。お母さぁん! ありがとう! お父さんを騙したことは悪いけど、でもお母さんは私のためにそうしたんだよね。AB型からO型が産まれたりはしない。私もお母さんもO型なのにね。あ、確か横浜の瀬川のおじいちゃんもO型だったよね。そうだったんだ。私の本当のお父さんって。でももういいよ。あ、そうそう、あの日、横浜に越したとき、夜中にお母さんが焼いていた写真、あれはおじいちゃんの本当の奥さんの写真だったんだね。いくら探してもおばあちゃんの写真が見つからないわけだ。でもね、私、おじいちゃんの奥さんのことは知らないからどうでもいいの。お母さぁん! お母さぁん! 私もお母さんたちと同じ血が流れてるから、お母さんみたいになっちゃったよ。ねぇ、お母さぁん! 愛も、この子もそうなっちゃうのかなぁ? やだな。ごめんね、お母さん
「もう話しはすみましたか? お好きなようになさって下さって結構ですよ」
「ほな、あんだ財産いらんのやな? 明日、一番にうぢ父ぢゃんと籍入れるげんな! 後でぐれゆうでも一銭もやらせんで! よおに覚えどぎよ!」
うんこ色した女は満足げに啖呵を切った。
「あ、冷だっ! やぁ、もう降っでぎだでや」
いつの間に雲が覆ったのだろう。星が見えていた紫の空は灰色の厚い雲で見えなかった。
「まごや、雨降っでぎだげんもういぬるでぇ! 早よいんで洗濯せないがまいげ。今晩は大雨じゃ。表に干せんげん、嬢や、母ぢゃんが明日までにぢゃぁんどスドーブで乾かしたげるげんな。さあ、いぬるで!」
肌がうんこ色した親子の後ろ姿を街灯は照らさなかった。マコちゃんの背中に手を振る愛は何を思うのだろう。自転車を車庫に停める僅かな時間に雨は勢いを増していた。玄関のドアに鍵を差し込んだとき、ようやく憑き物が取れた気がした。濡れた服を払ってドアを開くと、愛が我先に中へ入った。
「ちょ、ちょっと愛ちゃん! ちゃんと靴揃えて!」
「はぁい!」
愛の弾んだ声の響きは昨日と変わらなかった。その響きに今までのことが幻だったように思えて、ホッとため息を吐いた。
「なぁ、ママァ?」
「なぁに?」
「マコちゃんのおばあちゃんと何お話ししよったん?」
「ん……? あ、明日の参観日のことよ。マコちゃんのマ、あ、いや、おばあちゃんね、明日何時間目だったか忘れちゃったんだって」
「ふぅん、ちゃんとプリントに書いとんのにねぇ。マコちゃんおばあちゃんに渡さんかったんよ。マコちゃんいっつも宿題やってないし、忘れもん多いけん、先生にいっつも怒られよるよ。悪いねぇ?」
「そうだね……。あ、ところで、マコちゃんの用って何だったの?」
「今日のこと誰かにいうたらいかんよって。もしいうたらな、聖人様のバチが当るよぉって。聖人様が殺しにくるんやって。ほやけん、絶対いうたらいかんよって。なぁ、ママァ、わたしもうママにいうたやぁん? ほやけん殺されるん?」
「どうだろう……?」
私はふざけて応えた。
「これってウソやろ? 神様が助けてくれるよねぇ?」
そう訊ねた愛に怯えた様子はなかった。むしろワクワクしているようにさえ見えた。
「大丈夫、大丈夫! マコちゃん、愛ちゃんをビックリさせようと嘘いったのよ。悪い子だね。もし何かあっても、ちゃんと神様が助けてくれるから大丈夫よ」
「ウソばっかりつくけん。マコちゃんにバチ当ったらええのに」
「それはそうと、お腹すいたね! 急いで夕飯の支度するから。明日の用意やっててねぇ! 忘れ物ないようにちゃんと確認するんだよ」
「はぁい!」
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