「ママ、ほら! お空、雲が一つもないよ!」
愛とこうして手を繋いで帰るのは入学式の日以来だ。見上げた空はどこまでも青く、眩しいくらい澄み渡っている。参観日の今日の日が晴れてくれて良かった。
「昨日、雨、すごかったねぇ! 雷もすごかったやん。わたし、すごい怖かった。 あれ、神様が怒っとったん?」
夕暮れから降りだした雨は勢い止むことなく、すさまじい豪雨になった。地上に激しい音を立てて降り注ぐ水玉は、たった一晩で地上の汚れを綺麗に押し流してしまった。黒く立ち込めた雲は雷を呼び、闇を殺す閃光と空を裂く爆音はこの世の終わりを想像させた。
「あんなぁ、ママ、今日なぁ、先生がいいよったんやけどなぁ。マコちゃんのおばあちゃんってなぁ」
「うん」
「ほんとはママやったんやって。おじいちゃんもほんとはパパやったんよ」
「そう」
「先生がいいよったんやけどね。マコちゃんち、ストーブで火事になったんやって」
「そう」
「なんかねぇ、昨日すんごい雨やったのに、マコちゃんも、おば、あ、ママもパパも真っ黒焦げになっとったんやって。消防車の人がいいよったって先生いいよったよ」
「真っ黒焦げのマコちゃんたちを見つけた人は怖かっただろうね」
「新聞配達の人が見つけたんよ。マコちゃんのなぁ、おば、あ、ママなぁ、新聞配りよったんやって。でね、昨日の夜、全然こんけん、おかしいなぁと思って新聞屋さんが呼びに行ったんやって。それでよ。死んどんわかったん」
「そう。新聞屋さんも大変だね……」
「うん。ねぇ、ママァ」
「んん?」
「昨日、お外すごい雨やったし、雷もすごかったのに、どこ行っとったん?」
「あら、起きてたの?」
「うん。だってマコちゃんがいうたことが怖かったけん寝れんかったんよ。雷がママ殺したらどうしようってすごい心配やったけん、起きとった。なぁ、どこ行っとったん?」
「コンビニにノリを買いに。今日用意する物に書いてあったでしょ」
「あぁ、図工の?」
「そう。お家の中探したんだけど見つからなくってね。朝だと忙しいから、雨だったけど買いに行ったのよ。傘差してたのに横からも凄い吹き付けてたから全然意味なかっわ」
「ふぅん、ほうやったんかぁ」
「ほんと、道路なんか川みたいでね。ゴミとか一杯流れてたよ」
「ねぇねぇ、ママァ、帰ったときなんで泣きよったん?」
「え?」
「泣きよったやろ? でも、ちょっと笑っとるみたいやったけど」
「泣いてなんかないけど。それに、わら……、それは愛ちゃんの見間違いよ。電気も点けずに暗かったから、雷でそんな風に見えたのよ。ごめんね。心配かけちゃって」
「うん。ああっ!」
「どうしたの? ビックリするじゃない」
「あんなぁ、ママ、マコちゃんが死んだんなぁ、あれって聖人様が殺したんじゃない?」
「えっ、なんで?」
「昨日いうたやん、マコちゃんのこと誰かにいうたら聖人様に殺されるって」
「うん」
「いうたらわたしが殺されるんやと思とったけど、ほんとはわたしにいわれたらマコちゃんが殺されるってことやったんよ。た、ぶ、ん、まだ死にたくなかったけん、わたしにいうたらいかんよっていうたんやと思う。心配やったけんね、わたしらが帰ってくるん待っとったんよ」
身体に染み付いた灯油は、家に着く頃にはすっかり洗い流されていた。一面水溜りと化した無花果畑を細い通路に沿って奥へ進むと、その小屋は現れた。子供の頃、何度か友達と肝試しで訪れたことがあった。まさか、あの当時のまま残っていたとは……。
私はツイてると思った。ベニヤとトタンで仕切ったそれには鍵はなかった。入ったすぐの扉の横に灯油缶が無造作に置かれてあった。フラッシュのような雷の閃光が小屋の中を小刻みに私に見せてくれた。玩具みたいな仏壇が見えた。開いた扉の奥に蒲鉾板のような位牌と聖人様のステッカーが見えた。畳が二枚、地面に敷いてあった。その上で薄汚い染みだらけの布団を被って、親子三人が寄り添って鼾を掻いていた。消えたストーブの真上にピンクのカーデガンと一緒に、マコちゃんの乾いた制服が風に揺らいでいた。
カーデガンを手に取り、ストーブに掛けた。まだ半分以上中身が残っていた灯油缶を蹴り倒すと、中身が勢い良く地面を這って三人の眠る畳に染み込んでいった。みるみるうちに布団が灯油を吸い込んでいった。立ち込める灯油の匂いに頭がガンガンした。マッチを擦ったのは小屋を出てからだった。オレンジの炎が瞬く間に小屋を包んだ。そのとき初めて火が生き物だと知った。土砂降りに打たれながら、ぬかるんだ無花果畑を駆けた。プロパンガスの爆発音と共に地が揺れた。まるで落雷のようだった。結局、最後まで父の顔はわからなかった。見ようと思えば見れたのに……
「なぁなぁ、ママァ、そうやと思わん?」
「そうねぇ……。聖人様って怖いねぇ」
無花果畑に染み込んだ日野の血は、不意に現れた豪雨に綺麗に流されてしまった。日野の血を受け継いだ三人の親子。彼らは純粋に家族だった。私に味方した神は火と水で穢れを祓ってくれた。彼らを焼き尽くした炎はオレンジで綺麗だった。私はオレンジ色が嫌いだ。あの色は私に悲しみしか見せてくれない。
「怖いなぁ
わたしはなぁんもいわんとこ
わたしのことも
ママのことも
絶対、誰にもいわんとこ」
了
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