何度かテレビのオカルト番組で取り上げられたこともあったくらいだ。
「奥さんの左腕って、付け根からそっくりなかったらしいんよね。どういうわけか左腕がなかっただけで、身体の他の部分はほとんど無傷やったらしい。あの辺りって捨て犬が多くて、それが野犬になって市の方もかなり悩まされてるみたいやからねえ。奥さんも野犬に食われたんじゃないかって。車から奥さんの遺体まで引きずられた跡があったらしいよ」
普通ならこんな話を聞けばゾッとするんだろうな。でもうちの番犬も過去にそんな経験があるのよね。そのときの光景をばっちり目撃しちゃってたから、真理の説明はリアルにイメージできたわ。
「野犬って、もしかして土佐犬?」
人間の腕を食い千切るパワーの顎の犬は、土佐犬の他に思い浮かばない由美子のつまらない質問だった。
「土佐犬…? 多分、違うんじゃない。あ、由美子んちのリョーマは泥棒の腕に齧り付いてお縄にしたことがあるって言うとったね」
「高三のとき。新聞に出たよ」
「ふうん。そうなんや…。わたしと彼の関係がこんな感じになったのは、奥さんが亡くなってからやからね。さっき不倫してたって言うたけど、それはわたしの不倫願望がそう思いたかっただけのこと。奥さんが生きてたときは、彼はわたしには全く興味なかった」
なるほど。そうだったのか。
「とりあえず、理解したわ」
「ところで由美子、今日時間大丈夫?」
咄嗟に携帯電話で時間を確かめてみた。まだ九時になっていない。突然何かしら?
「うん。11時くらいまでなら」
それを聞くと真理は安心した表情になった。
「じゃあ、今からダム行ってみん?」
真理は微笑みを作って由美子を誘っていた。
「えっ、今から」
「うん。ここからなら30分もかからんし、どんなに遅くても11時には帰れるからいいやん」
恐らく断ったところで、真理がそんなものは受け付けないのはわかっていた。事故の多いあの道。真理の彼の奥さんだった人がそこで亡くなったっていうのに、真理はどういうつもりでいるんだろう。ついついそんな真理の無神経な振る舞いを疑ってしまう。
幽霊が出ることで有名な場所に、わざわざこんな夜更けに行こうだなんて。これってやっぱり彼の奥さんに対する憎悪の念からかしら? 優しくていい人だって言った割りには、亡くなった奥さんに素っ気ない口振りだった。奥さんに親しみと憎悪の両方を持っていたってことかしら?
「彼の奥さんが亡くなったとこやのに、恐くないん?」
「もう死んだ人間なんか恐くないよ。もしかして由美子、彼の元妻の幽霊が出たらどうしようなんて考えとんじゃない?」
まさにその通りだ。
「アハハ! 大丈夫よ! わたしらには幽霊なんか寄ってこんのやから。昔、魔除けしてもらったやん。ほら10年前、わたしら厄年やったんで、ドライブのついでにどっかのお寺でやってもらったやろ。忘れたん?」
魔除け?
真理からそれを聞いた途端、短大一年の夏、帰郷したとき高三のクラスメイト数人でドライブしたことを思い出した。確かにそのときついでに、見知らぬお寺で厄払いをしてもらっていた。
不思議だった。走馬灯のようにそのときの光景がリアルに甦ってきた。
「あっ」
思わず声を漏らしてしまった。
確かそのときだ。由美子の前に向かい合って座る真理の顔に重なって、お払いを受ける光景に現れた昔の真理の顔が見えた。
高校の三年間、真理とはずっと同じクラスだった。でもその三年間を通じて真理と親しく話なんてしたことはなかったはず。真理と親しくなったのは、確かそう、あの日一緒にドライブしたことがきっかけだったんだ。誰が真理を誘ったのか忘れたけど、わたしが誘ったのではないことは確かだ。真理と親しくなれたきっかけが、魔除けだったとは…。
「そう、そう! 行った。行った」
ずっと謎だった。真理と親しくなれたきっかけがどういう形だったのか。それが今解明されたことに、無性に喜びを感じてしまった。
「もう魔除けしとんやからね。何にも恐ろしいことは起こらんよ」
邦明の取引先の社長さんもお払いしたことで、災難の魔の手から逃れることができたんだわ。10年前どころか、私はつい2ヶ月前にも魔除けしたばかりじゃない。だから、絶対に幽霊を見ることなんてないわよね。
「魔除けしてるんやもんなぁ。大丈夫よね。なら行ってみよか!」
由美子が恐怖を振り払うかのように自分にそう言い聞かせたのが聞こえた途端、真理はすっかり冷めたコーヒーを一気に飲み干して席を立った。
もう何年も故郷の夜の街を車で走ったことのなかった由美子だったが、ホテルからダムまでの道に迷いはしなかった。ハンドルを握る由美子は、心の中で魔除けしたから大丈夫! 絶対にわたしには幽霊は見えない! と何度も繰り返し唱えつづけていた。同時に唱えている間中、真理に心の声が聞こえているんじゃないかと冷や冷やした。
由美子が呪文のように心の中で唱えているとき、真理が昔を懐かしんで由美子から聞いた思い出話をはじめだした。
「由美子から聞く話には恐いのもあったね。ほら、左手の薬指を探してる女の話」
「ああ、あの話ね。あんなの本当にあったら恐いよね」
「えっ! あれって実話じゃないん?」
運転してたから前を見てたけど、一瞬真理の表情が曇ったような気がした。
「当たり前やん。あれはただの都市伝説よ。左手の薬指をなくした女が、自分に合う薬指を探す薄気味悪い話やろ。あんなん本当にあったらニュースで言うとるはずやん」
由美子はダムに向かう狭い山道を走った。二人の乗った車以外に前後に走る車の明かりは見えない。すぐ傍に白いガードレールがある。その向こうは奈落の底だ。もう何台もの車が崖に落ちるのを食い止めてきたと見せ付けるように、所々白いペンキが擦れ落ちて中の銀色が強烈に光を反射してくる。カーブのとき、ヘッドライトに照らされて浮かび上がるその白い金属のプレートは、自然にそこに生えた物ではない。生と死の境界線は生きた人間が備えた物だった。
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