「ま、まさか、その指」
真理が微笑みを返した瞬間、心臓に鋭利な刃物が無数に突き刺さったような痛みを覚えた。激しく打ちつける鼓動が耳の内側からうるさく聞こえ、ジンジンと耳が大きく脈打つのが不快で堪らない。
「指輪で隠してるから注意して見んとわからんよ」
真理は左手を自分の顔の前に晒して、労って見ている。
「う、嘘やろ! 本当にその指」
それ以上先を言うのが恐かった。由美子は震える口元を両手で覆った。リングを嵌めた左手の薬指が、異常なくらいその存在感をアピールしている。恐怖心に煽られて吐き気すら催した。
「彼も、彼の奥さんもすごく幸せそうに見えた。由美子から聞いた話はいつもわたしを勇気づけてくれたよ。薬指を事故でなくしたときは本当にショックやったな……。
もうこの手にはエンゲイジリングの指定席がなくなったんやと思うとね、すごく悲しくなって、もう死んでもええかなって思ったりもしたんよね」
真理は優しい眼差しで左手を様々な角度から見ている。
「失意のどん底?やったんやろね。あのときのわたしは。でもね、或るときふと由美子から随分前に聞いた話を思い出したんよ」
「く、薬指を探す女」
由美子は震えで音にならない声を吐いた。
「そう。由美子から聞く話って、わたし全部本当にあった話やと思とった。だから、わたしもやてみよって。それでね、…やったんよ」
真理は左手から、奥さんの遺体が発見された辺りに視線を向けた。
「彼が出張で留守の日の晩。奥さんにちょっと見てもらいたい物があるって呼び出したんよ。奥さんは車でやってきてわたしを会社近くで拾って、それからわたしの案内でここまできたんよ。車を停めて、そして見せたんよね、一本足りんこの左手を」
そう言って真理は左手に嵌めたリングを強引に引き千切って、由美子の目の前に差し出した。真理の左手が視界に入った瞬間、由美子は全身が凍り付くのがわかった。
ない
左手の薬指が!
意識が遠のいていく由美子の口からは、感情を表わすものはもう音にならなかった。
「この薬指って義指やったんよね。奥さんにもこうやって見せたんよ。奥さん、絶句してね。由美子みたいに震えとったよ。それで、奥さんには正直にお願いしてみたんよ。『お願いします! 幸せな奥さんの左手の薬指を下さい』って」
真理は不気味な笑みを浮かべてそう言った。
「わたしがこんなにお願いしてるのに、奥さんときたら、『あんた、頭おかしいんじゃないん!』って。わたしは『おかしくなんかありません。お願いします。その左手の薬指、それ一本だけでかまいませんから』って何度もお願いしたんやけどね。全然駄目。『気持ち悪いから、車から降りて下さい! 警察呼びますよ!』って狂ったことをわめきながら電話しようとしたんよ。奥さん、左手に携帯電話を掴んでた。わたし警察に通報されるのが恐かった。
その後何が起こったんか憶えてないんよ。気がついたときにはね、わたし持ってきてた鉈を握り締めて、息を切らせてゼエゼエ言うとった。鉈は血で真っ赤で、携帯電話を握り締めた奥さんの左手が床に転がっとったんよ。奥さんな、泡を拭いて全身を激しく痙攣させとったよ。
わたし、しめしめと思った。だってすぐ目の前にお目当ての物が転がっとんやもん。すぐにそいつを拾ってバックに押し込んだんよ。それから奥さんを残したまま、車を降りてアクセルを踏んでやった。車は勢いよくそこのガードレールをぶち壊して転落してくれた。ほら、そこの新しいガードレルのとこよ。
車が落ちたんはここやったけど、奥さんの遺体は車からは見つからんかった。幸運なことに、野犬の群れが血の匂いを嗅ぎ付けて、車から奥さんを引き摺り出してくれたみたいなんよね。鉈で奇麗にカットされた手首の切断面も、左腕の付け根から跡形もなく、野犬がガリガリしてくれてね、奇麗に消してくれたみたい。お陰でわたしも警察に見つからんですんだんよ。さっきここにくるとき言うたけど、わたしらは魔除けしとるから災難からは免れてるんよ。
持って返った奥さんの左手は薬指を根元から丁寧に切断して、わたしの左手にくっつけようとしたんやけどね。全然サイズが合わんかった。ショックやった。まあ、体形がわたしと奥さんは違ってたからしょうがなかったんやけどね。そんなとき由美子が思い浮かんだんよ。わたしと由美子って全てにおいて身体のサイズ一緒やったやん。身長も同じ。スリーサイズも同じ。靴のサイズもそう。そして薬指の指輪のサイズも全部一緒。
由美子は昔からどんな小さな事でもわたしの相談に乗ってくれたよね。そして必ずわたしに答えをくれたよね。ここまで話せばわかると思うんやけど、由美子の左手の薬指、わたしにちょうだい! 由美子はもう使ったやろ。わたしの結婚祝いでええからお願い! 急かすようで悪いけど、今日中に貰わんと困るんよね。この手にくっつけるのに結構時間かかるから、早くしないと明後日の結婚式に間に合わんのよね。それに由美子も式前に病院に行っておきたいやろ」
薄れていく意識の中、鋭く砥いだ鉈を右手に持って、おねだりする真理の可愛い少女のような笑顔が頬擦りしてきた。
了
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