風に揺れたカーテンが開いた本やノートに引っ掛かり、ガサガサと虫の這う音を立てている。確かにさっき聞こえた音のようにも聞こえるがどこかちがうような気がしないでもない。
「ね、ただの風の仕業だったでしょ」
「え、ええ」
「いつも僕は静かにしてますよ」
「本当に? 間違いない?」
「ええ」
「じゃあ、あの苦情は何だったのかしらねぇ…? 騒音はうちじゃなかったとしたら一体どこだったんだろうねぇ?」
よねは首を傾げて加藤に訊ねた。
「僕はいつも早く寝ますからわかりません。今も寝ていました。奇妙ですねぇ…? 僕は騒音で目覚めたことはありませんよ。ねぇ?」
加藤は含み笑いを浮かべてそう言うと、一瞬部屋の中を振り返って何かに微笑みかける仕種を見せた。そしてゆっくり首をひねり、よねの瞳に映った自分をじっと見つめた。
吸い寄せられるような加藤の眼差しに、よねは本能的に恐怖を覚えた。なぜだかここにこれ以上いてはいけないと感じた。
「そう。夜分お休みのところごめんなさいね」
そういって一礼すると、すぐさま部屋を後にした。
部屋を離れながら後ろ目に加藤の部屋の灯が消えるのがわかった。その途端に薄暗いアパートに独りだけ取り残されたことに強い恐怖感を覚えた。歩みを意識的に早める。何か影の塊が背後からついてくるような嫌な感触がする。一歩進めばその影も一歩前に進み、立ち止まればその影も立ち止まってよねが動くのを待っている。腋の下の汗は冷たく二の腕に垂れ、張り詰めた緊張は老年のよねの心臓を痛く突いた。よねは深呼吸を二度ほどして思いきって階段を駆け下りた。玄関に揃えたサンダルを履いている余裕はなかった。急いでそれを手掴みするとドアを開け放ち、脇見もせずに一気に駆け出した。
角を曲がり、アパートから見えない通りに出たとき、ようやく緊張感から解放された。煌々とライトを照らすジュースの自販機の明りに救われた気がした。激しく打ちつける鼓動がよねを今見た奇怪な光景を思い起こさせた。
加藤君のあの仕種は何だったのかしら? あれは確かに誰かに微笑みかけていた。でも、部屋には誰もいなかったわ。
今しがた廊下で感じた不気味な影。何かが私の後ろにいた。もしや加藤君はその影に?
あの影は、まさか幽霊!
そこまで憶測を働かせ冷静に考え直した。
「あら、やだ、私ったら幽霊だなんて何を言ってるのかしら。誰一人としてあのアパートで亡くなった学生さんはいないじゃない。加藤君がげっそり痩せ細ってお化けみたいだったから、変なことを考えちゃったんだわ。廊下の影もよくよく考えてみれば、あれは私の影だったのよ。やっぱり夏だからこんな風についつい恐いことを考えてしまったのかしら? 加藤君は確かに一人だったわ。ご近所からの苦情、あれはうちのアパートじゃなかったようだし」
よねは額の汗を指で拭って自販機に背を着けて凭れかかった。
「フゥーッ。うちにとってはいい迷惑だわ。一体どこの誰なのよ! 皆んなこの暑さで気が立っているのね。加藤君には申し訳ないことをしちゃったわねぇ」
そう呟きながらよねは足を引きずるように家路についた。
「もういいよ! 出ておいで!」
加藤は灯を消した暗い部屋の中央に立つと、物陰に声を潜めて隠れていた子供たちを優しく手招いた。
ガサガサガサガサッ! スーッ!
畳の上を這う音が聞こえたかと思うと、狭い四畳半の部屋のどこにこんなに隠れていたのかと驚くほど、部屋のあちらこちから子供たちが加藤の傍に駆け寄ってきた。
「なぁなぁ、お父ちゃん、あのオバァ、誰でぇ? お父ちゃんのこと怒っとったけど。悪い人なんけ? お父ちゃんを怒る悪い人やったら、わしらが殺しちゃろか?」
「いやいや、お父さんは怒られてたわけじゃないんだよ。大家さんの勘違いなんだ。あの人はね、悪い人じゃないんだ。だから悪戯しちゃ駄目だよ」
加藤は満面の笑みを浮かべて身体に絡み合うように纏わりつく子供たちを優しく諭した。
「もう遊んだらいかんのか?」
「夜中は静かに遊べばいいんだよ。遊んじゃ駄目ってわけじゃないからね」
「お父ちゃんの家は静かにせないかんのじゃな」
「あそことちがってこの街にはたくさんの人が住んでるからねぇ」
「でもあそこよりましじゃ!」
「寂しくないかい?」
「なぁーんも寂びしない。あそこのほうが寂しかったわい」
夜の帳が下りる中、加藤は十数人の子供たちを相手に親子の語らいをつづけた。
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