「合宿までもう時間ねえだろ! 今週中に絶対に宿抑えろよ!」
7月を迎えた途端、大学三年の井上誠は生きた心地を感じなくなった。尻にはとっくに火が点いていた。四年の先輩から夏休みに予定している合宿の宿探しを仰せつかった彼は、まだ合宿先すら決められないでいた。サークル創立以来、過去に夏合宿が行われた例はない。三年以下のメンバーはこの度いい具合に四年生の思いで作りに使われたに過ぎなかった。そのことは三年の井上のみならず新入部員の一年も容易に知ることができた。井上は松山にある私大の空手サークルに所属していた。日本最古の温泉で名高い道後に大学はあった。そこは松山城から見て鬼門に位置していた。井上は三年生ながら会計の役職を任されていた。主将、副主将を含めて八人の四年生は、皆一様に就職活動に連日足を棒のようにしながら複数の会社を駆けずり廻っていた。八人の四年生内三人は女性だったが大手企業から内定を頂けないとわかるや否や、開き直って男性の先輩たちを余所目に最後の学生生活を満喫することに決めた。
三年生は会計の井上の他五人いた。その内の二人が女性部員だった。彼らも井上同様に格安の合宿先を探し出すのに頭を悩ませていた。一年生と二年生はそれぞれ七人ずつで構成されており、女性は三人ずついた。井上が所属している空手サークルは所謂フルコンタクト系の空手同好会だった。練習は基本稽古を手短にそのほとんどをスパーリングに費やすもので、サークルだけに空手道の精神を稽古を通じて学ぶことはなかった。飽くまでも趣味の域を逸脱しない活動内容に、大学側から助成金が下りることはなかった。合宿はすべて自腹ということもあり、内定の未だ決まらない四年生たちの機嫌を損ねない範囲内の金額で宿先を探し出さなければならなかった。だから会計を任されている井上は他の三年生以上に胃がシクシク痛む毎日を送っていたのだ。
井上を中心に三年生たちは旅行雑誌やインターネットを駆使して隈なく探していった。しかし、四年生たちが条件に挙げたような浜辺がすぐ目の前に広がり、山に囲まれ、おまけに観光客の少ない場所が見つかることはなかった。合宿先が決まらないままに七月を迎えてしまい井上は焦りは既に限界に達しようとしていた。合宿日時は既に決まっている。7月の第二週の金、土、日を利用して二泊三日の日程で行うと四年生から一方的に決められたのだ。時間はもうなかった。出発は来週に迫っていた。そこで井上は合宿十日前となった日の午後、四年生を除く他の部員たちを緊急に道場に呼び寄せてミーティングを開くことにした。井上は部員たちを畳に座らせると話しはじめた。
「今日わざわざ練習でもないのに集まってもらったのには理由があって、実はまだ合宿先が決まってない。だから一、二年の皆んなにも探してもらおうと思ってな。海と山があって安きりゃどこでもいい。どっか知らんか?」
「押忍! 先輩、予算は一人幾ら位ですか?」
と、身長187センチ、体重130キロの一年生の男が威勢よく手を挙げて質問した。彼は今年の新入生勧誘期間のおり学内で一人で暇そうにぶらぶらしているところを、その体格の良さを見込まれて井上にスカウトされたのだ。空手はまったくの素人だったが練習は誰よりも熱心に打ち込む真面目で気の優しい男だった。この巨漢の横に並ぶと身長178センチで体重85キロの井上も随分小柄に見られた。生真面目な後輩は先輩に応えるときはどんな場合でも必ず「押忍!」を付けるのを忘れない。正直、井上はこの何に付けても押忍! 押忍! 押忍! 押忍! と馬鹿の一つ覚えのように付け加えられることが耳障りで鬱陶しかった。
「交通費、宿代合わせて2万?」
部員たちの顔色を見ながら井上は語尾を弱めて言った。
「押忍! それなら双海辺りでキャンプしたほうがいいんじゃないでしょうか?」
一年の男は半ば呆れた口調で言った。
「キャンプなんてしようものなら一から十まで先輩の世話しなきゃなんないだろ。そんなの皆嫌だろ。それに先輩方は民宿ってものに泊まってみたいそうだから」
「押忍! それなら近場でもいいから海と山がある安い民宿さえ見つかればいいってわけですね」
「まあね。それでいて観光客がこないところがあれば」
ミーテイングがはじまった頃は会話が道場に響き渡っていた。しかし、しばらくすると外で鳴り響く自動車の騒音で道場内は一杯に満たされるようになった。井上の焦りは内定の決まらない四年生の怒りの矛先が、一身に向けられる自分自身の身を案じる想いと重ね合わさってじわじわと心臓を締めつけていった。沈黙が30分はつづいただろうか、それでも誰も何も反応を示さない。ただただこの無駄に思える時間から解放されたいと願う者すら見える。そんなとき一人の男が恐る恐る手を挙げた。二年生の加藤健だった。
「押忍! あのぉ、あんまりお薦めじゃないですけど一泊二食付きで二千円って民宿を聞いたことがあります」
次の瞬間、部員たちの視線が一斉に加藤を捕らえた。部員たちを見渡しながら話す加藤はどこかおどおどしているように見えた。
「条件はどうだ。満たしてるか?」
「押忍! それは問題ありません」
「客は? 有名なとこか?」
「客は恐らくいないと思います」
加藤は部員たちの視線を気にしながら不安気に応えた。井上は加藤の話振りから何か曰く付きの感じは受けたが、兎に角どんな場所なのか訊いてみることにした。
「で、そこってどこよ?」
井上はこのところの陰鬱な生活に一条の光明が射し込むのを覚えながら加藤に訊ねた。
「お、押忍! 近くです」
躊躇いが加藤の顔に現れていた。
「近いほうがいいよ」
井上は陽気に促した。
「佐田岬です。押忍!」
加藤の口から佐田岬という名が漏れた瞬間、それまで静寂を解かなかった道場が一瞬にして響めきに包まれた。
「あの辺りにはそんな安値の民宿はないだろ。それって本当なのか?」
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