7月の第二週の金曜日は車内ラジオの天気予報によると、日本全国快晴の好天気ということだった。6月に立て続けに押し寄せた台風を憶えている者がないほど、7月は好天気がつづいていた。いよいよ合宿当日を迎えたその日、直接四年生と関わりを持たない一、二年生は初めての合宿ということもあって、どこか稽古というよりもちょっとした団体旅行の気分が前に出ているように見えた。
松山を発ったのは金曜の正午だった。集合場所は松山市の南に位置する重信川と石手川の中州にそびえる武道館前の駐車場だった。武道館は何度か稽古に利用したこともあり部員の誰もが迷うことなく時間通りに行き着くことができた。交通手段は一学年毎に自動車を二台ずつ計8台用意して、それぞれの学年毎に分乗して目的の場所を目指すことになった。
待ち合わせ時刻に遅れる者はなく、予定通りの出発ができた。井上は佐々木の四駆に乗り込んだ。四駆は先頭を走り、残りの7台を先導する形で合宿先の村里を目指した。合宿予定地とされた村里は四国の西端を鋭利な形状で描く細長い岬のほぼ先端に位置している。井上も他の部員も佐田岬の先端にある灯台へは何度か足を運んだことがあった。豊後水道と瀬戸内海を貫く岬は魚場に恵まれ、関鯖の魚場として全国的に知られていた。空気が澄み切った日には、東大から手を伸ばせば届くほどの距離に九州を臨めることができた。
松山から南下し伊予市を経てしばらく小山を走ると、右側に瀬戸内海の紺碧と空の淡いブルーが部員たちの目を惹きつけた。途中、双海町のシーサイド公園でトイレ休憩をし、白い砂浜に打ち寄せる小波に耳を休ませ、再び車に乗り込んだ。左手に山の緑、前方と右手に空と海の青に囲まれながらゆっくり車を走らせ、大洲の鵜飼いで名高い肱川を越えてしばらく進むと右折に佐田岬の道路標識が目に留まった。
井上を乗せた車は道路標識に案内される形で方向を西に向けた。深い緑に覆われた岬に走るメロディーラインと名づけられたアスファルトの筋が、夏の陽射しで白く照り返し、ドライバーたちの目を痛く刺激する。遠くライン上に風車の列が見えてきた。風力発電のそれは近づくにつれ巨大化し、道行く人々を圧倒した。メロディーラインに沿って点在する道の駅には、平日にも関わらず多くの行楽客が駐車場を占めていた。岬を縦断すること一時間。日本で一番長い岬だけあり、その終着点は遥かに連なる木々の緑に遮られて見えない。瀬戸町を通り抜け更に西へと三崎町に入り細い脇道へと逸れ、迷いに迷ってようやくお目当ての村里の入口に着いたときにはもう午後3時を過ぎていた。
原生林が生い茂る深い影の中、車一台がどうにか通れそうな細い道が蛇行しながら村里までつづいていた。先刻までの陽光の眩しさが嘘のように、道を下るにつれて影は濃くなっていった。一同を驚かせたのは纏わりつくような強烈な潮の香り以上に、薄暗い大きな影の塊にしか見えない古ぼけた村里の姿だった。
夏の午後3時と言えば、一日の中でも最も陽射しの激しい時間帯だ。しかし、村里に射し込む陽光はまったくと言っていいほどなかった。加藤の説明通り村里は東、南、北の三方を岩肌を剥き出しにした切り立った山に阻まれ、西側に僅かな浜辺が覗く袋小路になっていた。三方を囲う瘡蓋のような岩肌は優に200メートルの高さがあった。山と表現するにはあまりにも柔らかすぎる無数の地層が斜めに走る縞模様を描いた巨大な壁、その様相は巨大な城壁を連想させた。
こんな場所によくもまあ人が住めたものだ。井上をはじめ部員たち全員が最初に抱いた感想の一つだった。井上は思った。なるほどな、村の南サイドにこんなに高い壁が迫ってりゃ、陽が射し込むのは無理だろうなあ。
村は不思議な雰囲気を漂わせていた。外界を寄せ付けぬかのように横たわる幅2メートルほどの川を前に、先頭を走る井上たちの車は停車した。県道から連なるアスファルトの道はその川で途切れていた。川の向こう岸には砂利と土の道が奥に吸い込まれるように見えている。橋がなければ先へは進めない。川の脇が開けて雑草が生い茂っていた。そこに車を寄せ、不審に思った井上は車を降りて辺りの様子を窺うことにした。ふと川を覗き込むと驚くほど水深が浅いことに気づいた。深さ10センチに満たないとても浅い川だ。唯一村里と外界を渡す道に露骨に外界との境界線を見せ付けている。これならば心配はないだろうと胸を撫で下ろしたのも束の間、振り返った井上の視線の先に奇妙な物が飛び込んできた。幅4メートルほどの石畳の橋のようなものが見えた。奇妙なことにそれは川底に敷かれていた。橋は架けられることなく敷かれていたのだ。井上の乗っていた車を真似て次々と後続車が川に沿って車を停め、一人二人と旅の疲れを癒そうと車外に出はじめた。
「祓橋だと」
不意に背後から声がした。四年で副主将の西村昭夫が石畳に刻まれた橋の名前を見つけたようだ。
「ふぅーん、てことは昔はそこで身を清める儀式を執り行ってたのかもな?」
迷信めいた話が好きな四年の木村和彦が呟いた。石畳。石と聞いて井上には先日加藤から聞いたピンク色の石の話が瞬時に思い浮かんだ。石によって加藤の友人は奇怪しくなったと言った。以前のよく知る友人ではなくなったとはどういうことだろう? そのとき井上は加藤から友達が最終的にどうなってしまったのか聞いてなかったことに気づいた。石畳の橋を見下ろすように集団ができていた。加藤は一人離れて川の傍に腰を降ろしている。加藤は他の部員たちのように奇妙な村里の様子に心を乱すこともなく、祓橋の上を撫でるように流れるせせらぎを静かに見つめていた。加藤の横顔はどこか物悲しげに見えた。
「ちょっと、加藤」
「押忍」
加藤の返事に覇気が感じられない。やはり変調をきたした友人を思っていたのだろう。
「ところで訊いてなかったけど、この村にきたおまえの友達のことなんだけどな」
「押忍」
「ピンク色の石を可愛がるようになってからその後どうなったんだ?」
井上は明るく笑顔を繕って加藤に声を掛けた。加藤は突然の井上の質問にも動じる様子はなく、千切れ落ちた小枝を拾い上げて川に投げ捨てると先日のように淡々とした口調で話しはじめた。
「押忍。彼はそれを肌身放さず持ってました。いついかなるときもです。勿論、風呂に入るときも必ず。一度、あれはそうだ、彼がこの村から返ってきて十日くらいしてからだったかな? 俺と二人で温泉旅行に出掛けたことがありました。ちょうど俺も帰省してまして、そのときもちゃんと持ってましたよ。それで彼は温泉に入るときも、その石を一緒に連れて入ったんです。連れて入ったって聞いて先輩変に思われるかもしれませんが、俺も訊いたんです。どうして温泉まで持って入るんだって。そしたら、一緒に入りたいっていうから連れて行かないと可哀相だろって、そういったんです。俺はいってやりましたよ。連れて行くって、おまえただの石じゃないか、気持ちの悪い言い方は止めてくれって。でも、彼は俺に気を悪くした様子を見せることはありませんでした。おまえには聞こえないのか、この子の声がって、逆に訊かれたけど俺には何のことだか? どういうわけか彼はその石と話ができるようになってました。最初は冗談だと思ってました。でも、そうじゃなかったんです。彼は真剣に石と話してましたから。
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