案内図を通り過ぎたところで助手席に就いた井上は、振り返って車窓越しに祓橋のほうを見た。その瞬間井上の目に数人の人影が過ぎった。
「あ、子供がいる!」
井上が祓橋の傍で見た人影は10才にも満たない幼い子供たちだった。皆んなボロボロに汚れた粗末な服装で、年長者らしき子供は木の枝を齧り、幼い子供は指を咥えてじっと物欲しげに車の後を見つめている。村の子供たちにちがいない。井上はそう思った。
「橋の傍で子供が見てるぞ」
井上は何気に言った。
「子供? ちょっと、気持ち悪いこといわないでよ!」
後部座席に乗っていた三年生の向井由香が眉を潜めて即座に返してきた。
「ええっ? だってあそこ、ほら」
井上は子供を指さそうともう一度振り返ったが、そこにはもう子供たちの姿を見ることはできなかった。
「あれ? 今までいたのにどこに隠れたんだ?」
「何いってんのアンタ。バカじゃない! 私も橋のほうを見てたけど、子供なんてどこにもいなかったわよ。幻覚でも見たんじゃない」
由香は勝気で男勝りな女だった。入部した当初から井上の言動にはいつも執拗に絡んできて、揚げ足を取っては面白がった。井上はそんな由香のことが大嫌いだった。
一々うるせえ女だなぁ、ったくよぉ! それにしても何でコイツがこの車に乗ってんだよ! ここに着くまでずっと眠ってたくせに!
井上は由香の一言ひと言が気に入らなかった。
「そこからは見えなかったんだろ! ここからはちゃんと見えたんだよ! バーカ!」
井上は由香の神経を逆撫でるようにからかって言った。
「ちょっとアンタ、バカって誰にいってんのよ!」
由香は井上の挑発に簡単に乗り、ムキになって声を荒げた。
「おまえ以外にこの車にバカは乗ってないよ」
尚も由香の逆鱗に触れる言動を井上は繰り返した。
「ムカつくぅっ! ちょっと車停めてくれるっん! こんなバカと同じ車になんて乗ってらんないわ!」
顔を真っ赤にして由香がキレた。
「おいおい、こんなところまできてケンカすることないよ」
一人静かに運転していた三年の佐々木満が二人を鎮静するように優しく笑顔で言った。
「だってこいつが子供なんかいなかったっていうから!」
井上もいつのまにかムキになっていた。
「いないものはいないんだからしょうがないでしょ! ほんと、バカじゃない!」
由香はそう言ってそっぽを向いた。そんな二人に呆れた佐々木が見かねて一言いった。
「向井さんには悪いけどね、俺も子供がいるのを見たよ。バックミラーに映ってた。だから井上は寝ぼけて幻覚を見たわけじゃないよ」
「なっ、俺のいったとおりだっただろ」
井上は佐々木の言葉を楯に、鬼の首を取ったかのように鼻高々な表情を作って後部座席の由香に優しく、しかも嫌味に微笑んで見せた。由香は反論する言葉を失い、下唇を噛みしめて屈辱に堪えながらも笑顔で見つめる井上を睨み返すことを忘れなかった。
「それにしても粗末な恰好だったよなぁ」
ハンドルを握り、前方に目を向ける佐々木が呟いた。
「ああ、今時あんな恰好してる子供なんて見かけないよな」
「よっぽど貧しいんだろうな」
井上は民宿に向かうまでの短い道中、祓橋で見かけた子供たちのことを考えていた。
あの子たちはまだ一度もこの村から出たことがないんだろうな。そう言えば、加藤の友達は子供の幻覚を相手に父親になったつもりで、部屋に閉じこもってミイラのように痩せ衰えて亡くなったらしいが、まさかあの子供たちとは関係ないだろうなあ。深緑に彩られた細い道を走る車の中で井上は一抹の不安を感じた。
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