祓橋から5分ほど曲がりくねった細い道を抜けると集落が見えてきた。集落が見えた途端、道幅は突然広がりを見せ、幅10メートルはあろう大きさで集落を東西に二分した。祓橋からつづくその道は南北に走り、数本の細い路地が東西に横切る形で走り、碁盤の目を形勢していた。南北に走る道に沿って建ち並ぶ民家はどれも隣と直に隣接することなく、必ず路地を挟んで建てられていた。不思議な町並みだった。まるで大昔に逆戻りしたのではないかと目を疑うような古い佇まい。どの建物も剥がれた土壁と朽ちて埃を吸った柱でどうにか崩れないように持ち堪えていた。その弱々しくも重力に反発する姿からは生命力が感じられた。まるで飢えに耐える老人のようだった。
無枯村に漂う時代錯誤な錯覚に、井上は心の内側に埋没した忌ま忌ましい幻影が解放されていくように思えてゾッとした。不気味な胸騒ぎが心の奥底から這い登ってくるのがわかる。ふとした瞬間、セピア色に染まる古い街並みに心が奪われ、郷愁の想いに感極まって全身の体毛が直立するような暖かなものではなく、背筋が凍りつくような邪悪で危険な、忌まわしい物との遭遇に本能的に心が怯えているような感触だった。村に着いて早々、井上は旅の疲労感を忘れさせる程の底知れぬ不安を強く覚え、背を丸めて首をすぼめることになった。井上に限らず他の部員たちも皆同じ気持ちだったろう。
見上げると、空には祓橋で姿を見せた黒い雲の塊はもう見えなかった。山陰に隠れた無枯村では空を真上に見上げたところで、空は僅かにしか見えなかった。実に不思議な村里だった。昼間というのに不気味なくらい薄暗い。ふと目をやると昼間から街灯が灯されている。村里に降り注ぐ夏の陽射しよりもその街灯の明かりのほうが心強くさえ感じられた。古い街並みを一層演出するかのように、それはガス灯だった。
二泊三日の予定で世話になる民宿・無枯荘は、案内図に頼らなくともすぐに見つけることができた。無枯荘は南北に走る広い道路沿いに、大きな看板を掲げてひっそりと立っていた。そこは無枯村に一件しかない商店、無枯商店が民宿も兼ねて営んでいた。無枯荘にいち早く着いた四年生たちは店の前に車を停めて、タバコをふかしながら井上が到着するのを車外で待っていた。佐々木が空いた場所に車を停めるなり、主将の大沢は助手席の井上に手招きして話があると言う仕種を送ってきた。車から降りた井上の鼻にどこからともなく磯の香りが纏わりついてきた。耳を澄ませば波が岸壁にぶち当たって細かく跳ね返る音が聞こえる。どうやら海はすぐ傍のようだ。そんなことを思いながら井上は主将の大沢の許に急いだ。
「押忍! 先輩!」
「おまえなぁ、いくら低予算で海、山あって観光客の少ない場所を探せといっても、これはないんじゃないかぁ。おまえ今はまだ昼だぞ、なのになんだあの街灯は? あれ電気じゃないだろ?」
「押忍」
「それに全然人の気配が感じられん。ちょっと度が過ぎるぞこれは」
開口一番大沢は文句を並べた。井上は黙って大沢の文句に付き合った。
冗談じゃねえよな! 一々文句いってんじゃねえよ! 面倒臭えことを後輩に押しつけるから、内定ももらえねえんだよ! 先輩だからって、ふざけたこといってんじゃねえぞ! ここを探し出すのに俺たちがどれくらい苦労したと思ってんだ!
と心の中で叫んではみたものの、それを声に替える度胸はなかった。
「押忍! 済みませんでした!」
井上は深々と頭を下げた。
「他にももっと探したらいいとこあっただろ」
呆れた顔で大沢がタバコの煙を井上の顔に吹き付けた。
「押忍!」
あんならおめえが探しゃいいだろ! 畜生、どうして俺が注意されなきゃなんねえんだよ! おめえがいった条件は全部適ってんじゃねえか!
「しかし、もうきた以上はどうしようもないよな。兎に角駐車場どこにあんのか訊いてこいや」
大沢のふてくされた態度は、空手の修行を通じて精神の鍛練が積まれているとは到底思えなかった。
大沢は部員たちの中でも一番空手歴が長い。はじめたのは3才のときだと聞いたことがあった。確かに経験が長いこともあって空手の腕前は他の誰よりも抜き出ていた。身長173センチ、体重70キロの大沢のテクニックは誰にも真似できるものではなかった。彼を羨む部員の誰もが思っていた。当然と言えば当然なのだろうなあ。なんてたって大沢さんにはマンツーマンで指導してくれる方がいるのだから、巧くならないほうが奇怪しいのだと。
村にきて大沢が怒るのもわからないでもなかった。井上自身、もしも誰か他の人間がこんな場所を合宿先に見つけてきたなら、一番に文句を言ったにちがいない。でも、これを機に主将も俺には面倒な仕事は押しつけたりはしないだろうと思うと、これはこれで良かったのかもしれないという浮ついた思いが過ぎり、注意されたことが逆手に取れて良かったと安堵感に気持ちを切り替えることができた。兎に角、井上は駐車場がどこにあるのか訊こうと無枯商店の入口の引き戸を開いた。ジャリジャリと音を立ててレールに挟まった砂を弾きながら、入口の引き戸はゆっくりと開いていった。
「御免下さい!」
井上は戸口から頭を覗き込ませて声を掛けた。経費節約なのか店内は明りが灯されず、とても暗い。耳を澄まして待つものの、店の人の反応が返ってはこない。
留守だろうか? おいおい、今日予約してんだぞ! ふざけんなよ!
「御免下さい!」
不安に煽られてもう一度大きな声を掛ける。店の中は外の薄明かりよりも一層暗い闇に包まれている。井上は店の中を見渡した。
それにしても薄気味悪い店だなぁ。本当にやってんのか、ここ?
しばらく待ってみたものの何の返答もない。井上は不安が的中しないことを祈った。
ほんとマジで誰か出てきてよ! もしも閉店なんてことになってたら俺の立場は最悪じゃねえか! マジで誰かいるんだろ! 隠れてないで顔見せろよ!
「御免下さい!」
更にもう一度、今度はありったけ大きな声で叫んだ。
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