井上が水野と佐々木の話を聞きながら呆れているときだった、ギィヤーッ! と突然、女性部員の悲鳴が二階に響き渡った。すぐに「なんだ!」と男性部員の叫ぶ声と共に、ドアを慌だたしく開き、バタバタと廊下を駆ける振動で床が揺れた。どうやら四年生や一、二年生の男子が悲鳴を聞きつけて、女性部員の部屋に向かったらしい。
「どうする? 俺たちも行ってみるか?」
イベント好きで調子者の横山登が、好奇心に駆られた顔で訊ねてきた。井上たちは一様に目で、「行ってみよう!」と合図を送ると、横山が真先に駆け出した。
女性部員の部屋の前には先に駆けつけた男性部員たちで犇めきあっていた。何やらガヤガヤと男の怒鳴り声に紛れて女性の泣きじゃくる声が聞こえる。着いて早々何事だあ? 井上は階段の踊り場の壁に凭れて様子を伺うことにした。人込みを縫って横山が下級生に何が起こったのか訊いてきた。
「横山、何だって?」
水野が訊ねた。
「おまえが探してた紙切れが押入れの天井に貼ってあったそうだ」
横山の話を聞きながら井上は思った。
ということは他の部員たちも水野のように御札が貼ってあるかどうか調べてたのか…。ったく臆病者ばかりだ! 何のために空手やってんだよ。精神を鍛える前に派手な技ばかりに気を取られてるから、御札見つけたくらいでビビったりするんだよ!
「一年と二年の部屋にも貼ってたらしいぞ。…男子も女子もだから、この廊下沿いの部屋全部ってことになるな」
目を輝かせて興奮して語る横山は、御札云々よりもイベントが起こったことが嬉しいようだった。
「てことは、幽霊が出る部屋ってことか?」
井上は無表情で訊ねた。
「そうかもしれん」
そう返す横山には幽霊なんてどうでもいいって感じだった。横山にしてみれば幽霊もイベントに繋がれば、それはそれで良かったのだろう。
井上は不気味な感触を凭れた壁伝いに背中に感じていた。
俺たちの部屋には御札はなかった。押入れの天井で見つけたって言ってたけど、水野は押入れの天井もちゃんと確認したんだろうか?
そう思うと意思とは関係なく、不意に動悸が加速したのに驚いた。こめかみが締めつけられるように痛い。
あれ? どうしたんだ? なんで頭が。急に寒けも感じはじめた。もしかしてお化けのせいなのか? しかし、そんなもんねえだろ! でも、もしそうだったらどうする? 水野は本当に確認したのか?
井上は突然の体調の異変に不安を駆り立てる悪いことばかりが思い浮かんだ。そして堪り兼ねて水野にそのことを確認することにした。部屋に戻って押入れの中を確認すれば済むことだったが、誰もいないあの部屋に一人で入る勇気はなかった。
「み、水野。ちょっと!」
井上は御札が貼られていた部屋を一部屋一部屋確認して廻る水野を大声で呼び戻した。
「なんだよ」
井上に呼ばれた水野は不機嫌な様子だった。興味津々に後輩たちと御札を覗き込んで楽しんでいる最中に呼ばれたことに気を悪くしているようだった。
「おまえ、押入れの中もちゃんと確認したよなぁ?」
「ああ。おまえも見てただろ」
水野の視線は後輩たちに向けられたままだった。
「天井もちゃんと確かめた?」
井上はこれ以上水野の機嫌を損ねないように様子を伺いながら優しく訊ねた。
「なかったよ」
素っ気なく応える水野は後輩たちの動向が気になってしょうがないらしい。
「そうか」
「もうあっち行っていいか?」
水野は後輩たちをアゴでしゃくった。
「ああ、悪かったな。いいよ」
井上は水野の機嫌を損ねたことを心配するよりも、御札が押入れの天井にも貼られていなかったことが確認できて良かったと思った。そのとき、ギィーッ、ギィーッ、ギィーッ! とゆっくり木板の擦れ合う音を立てながら無枯荘の女が階段を登ってきた。
「どうかされましたか?」
女は怪訝な表情を浮かべ、踊り場に佇む井上に訊ねた。井上はことの成り行きを話した。
「御札が、ですか」
女は言葉に間を置くと、思い当たる節があるかのように語尾をはぐらかせた。井上は女の顔をじっと見ていた。女の表情からして何らかの理由があるのは明らかだった。井上はつぶさに女の表情の乱れを逃さないように注意して見ていた。フゥーッとため息のような長い吐息を吐いたかと思うと、女は視線を落として小さな声で語りはじめた。
「ここら辺りはどこの家庭も皆、全部の部屋に貼っとんです。ここの風習を知らん、お客さんらには気色悪かったかもしれませんね」
力なく語る女の視線の先には御札を見つけて廊下で泣きじゃくる女性部員がいた。女性部員たちは廊下に荷物を纏めて部屋の中には入ろうとしなかった。井上は泣きじゃくる女性部員を、肩を落として弱々しく見つめるしかない民宿の女が不憫に思えてならなかった。
「実際のところどうなんです? 幽霊って出るんですか?」
井上は女の心中を察して気を遣いながら訊ねた。
「幽霊なんか、ここにはおりません!」
語気を荒げた女の声が悲しみで震えているように聞こえた。
「そうですか。なんかお騒がせして申し訳なかったです」
井上は女に悪い想いをさせてしまったことに罪の意識を感じた。
「ようおられるんですよ。お客さんらのような方が」
「はい?」
井上には女の言っている意味がわからなかった。
「御札があるということは何か出るんやろが! いうて物凄い剣幕で怒鳴って、こられたその日に帰られるお客さんが」
女の声にはきたときに見せた感じの良い田舎のおばさんの優しい響きはなかった。井上には女のその変わり様が一層不憫に思えてならなかった。
「でも、幽霊って出ないんでしょ。それならちゃんと説明すればいいんじゃないですか」
井上は女を励ますつもりで言った。
「ええ、そうなんですけどね。何度もお客さんにわかっていただけるように説明したんですが、皆さん怒っとるもんですから話をちゃんと聞いてくれんのです。宿泊代が一泊二千円いうんもお化けが出るけんやろが! と、そういわれましてねぇ。頭にカーッと血が昇ったお客さんには何いうても焼け石に水です」
「あのぉ、くどいようですけど気を悪くされないで下さいね」
女に断りを言ってから、井上はもう一度御札を貼った理由を訊いた。女は涙が零れそうな目尻を小指でなぞると話しはじめた。
「じゃあ、ちょっと僕が主将さんに理由を話してきますから。ほんと気を悪くされないで下さいね」
井上は女に訊いた御札の説明を主将の大沢に告げると、大沢は部員たち全員に説明しはじめた。
「御札は各部屋に貼られてるそうだ。しかし、これはその部屋で誰かが亡くなったから供養のために貼られたのではなく、この地域の昔からの習わし事で、どの家庭も部屋の一ヵ所に御札を貼って魔が寄らないように護ってもらっているとのことだ。だから、皆んなが想像しているようなお化けだの幽霊だのとは一切関係ないからもう心配しなくても大丈夫だ。先入観から民宿の方には大変なご迷惑を掛けてしまった。今後はそういうことで民宿の方を困らせるようなことがないようにしてくれ! 押忍!」
主将の大沢の説明は効果的だった。気が動転して冷静になれないでいた女性部員も泣くのを止めたた。
「じゃあ、皆んな胴着に着替えて10分後に店の前に集合! 皆んなサポーターとグローブも忘れないように! それから一年生はミットを運ぶように! 以上、押忍!」
大沢は気を取り戻してすぐに合宿のメニューの消化に当たった。大沢の合図で部員たちがそれぞれの部屋に帰ろうとしたとき、民宿の女が部員たちを引き止めて言った。
「あのぉ、ここらにあるもんは、なんもうつさんといてくださいね」
コメント