ギャラリーが現れたところで、稽古はミット打ちからスパーリングへと替わった。恐らく村の子供たちが空手というものを見たのは生まれて初めてのことだろう。スパーリングのあいだ、白帯の連中は脇に離れて先輩の動きを見た。経験の浅い白帯には先輩の動きを研究するのも重要な稽古の一つだった。井上の所属する同好会は、各々が一般の町の空手道場に通っていた。部員の中には経験者もいたが、ほとんどが空手は未経験の素人だった。井上もまた入部したときはまだ帯に色は着いていなかった。二年掛けてやっと帯の色も茶色になり、次の昇級昇段審査で黒帯にチャレンジできるところまできていた。
今年入部した新入部員たちは珍しく全員が素人だった。中にはテレビの格闘技番組の影響で技術的な知識だけは豊富な者もいたが、見様見真似の技を思うがままにコントロールすることはなかった。知識ばかりを蓄えて、空手に肝心な反射神経の養成を無視してきた空手フリークには、本来の地味な空手の稽古は味気ないものでしかなかった。新入生たちのあいだで交わされる会話ときたら、大体が有名な空手選手の得意技について、ああだのこうだのとまるで評論家にでもなったつもりなのか稽古に精を出すことよりも、憧れの選手に想いを募らせるほうに懸命だった。三年生になり、このところ空手に魅力を見出せないでいた井上には、これらの新入生の行動は間抜けにしか見えなかった。
井上は佐々木とパートナーを組んでスパーリングをした。佐々木は体格がほぼ井上と同じたったため、二人はよくスパーリングをした。砂浜で上段廻し蹴りを入れようものなら、蹴りの勢いに足に着いた砂も同時に相手の顔面に降りかかることになる。砂が目に入ると痛いので、井上と佐々木は上段への攻撃は敢えてしなかった。辺りを見渡しても上段に攻撃を仕掛ける者はなかった。この砂浜にきてどれくらい経っただろう。時間の経過を太陽の移り変わりで知ることができない無枯村では、時の流れが止まってしまったかのように思えた。
「今日はこれで終了する。各自忘れ物のないようにな。宿に上がるときは足に付いた砂を払って、民宿に迷惑の掛からないように注意してくれよ!」
「押忍!」
大沢の終了の合図を今か今かと心待ちしていた部員たちの押忍の掛け声は、その日砂浜できいた掛け声の中で一番大きく聞こえた。四年生たちは帯を解くと、胴着を開けながらさっさと民宿に向かっていった。
「あれっ?」
一年の男が不思議そうな顔で辺りを見渡している。
「なんだ、何かなくしたのか?」
その声に足を止めて大沢が振り返った。
「押忍! 子供たちがいないんですけど」
キツネに摘まれたような面持ちで一年が応えた。
「家にでも帰ったんだろ。おまえたちも急げよ!」
大沢はそう言うと四年生たちと先にどんどん歩を進めていった。一年の男は首を傾げ、その場に立ち竦んで何やら考え込んでいる。不審に気づいた他の部員たちもその男の傍に一人二人と集まってきた。
「確かに変だよ」
佐々木が呟いた。井上は佐々木の声を背中に受けながら、視線は無意識に加藤を探していた。急に、今まで意識から除外されていた波が岩場に当たって砕け散る音が聞こえてきた。静かな引き潮が辺りを不気味に寂しい雰囲気に包んでいる。風が波に乗って微かに頬を掠めていったが、爽やかな風とは間違っても言えない湿った生暖かい人の手で撫でられているような不快感を覚えた。気づくと西の空が赤く染まっていた。灰色のどんよりと重い空がその日はじめて他の色に変わった。灰色に突然流れ込んだ赤い色は、墨汁に赤い絵の具を垂らしたように二色が溶け合うことなく、それぞれ独立を保って不気味におどろおどろしさを見せつけている。絵画などではこういった空もあるのだろうが、自然が描いた空には人工的でない命の通いが感じられた。
「気味悪い空だ」
加藤の呟く声が辺りに響き渡った。
「子供たちが突然いなくなったかと思うと、今度は空が変なふうに赤くなった。これってなんか意味あんのかなあ?」
二年の男が不安そうに加藤に言った。
「意味って?」
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