「スパーリングが終わる少し前までは傍で見ていたのを憶えてるんだ。でも、大沢さんが終了の号令をかけたとき、一瞬先輩のほうを向いてすぐにまたギャラリーに目をやったんだけどな。そのときにはもういなかったよ。そのときは別に変だとは思わなかったけど、子供たちは一年の脇にいたのに、いなくなったことをどうして一年のやつらは気づかなかったんだろう? 変じゃないか?」
井上は辺りを見渡した。砂浜と民家のあいだには高い堤防があった。砂浜の入口は一ヵ所しか開いてない。
「入口の傍に大沢さんはいたんだぜ」
砂浜の入口を見つめる井上の視線の先を追って、佐々木が言った。
「まさか、あの子たち、幽霊?」
そう言った途端、井上は一瞬にして背筋が凍る思いに包まれた。頬には引きつるような痙攣が感じられた。
「そう思いたくはないが…。ちょっとここ見てみ」
佐々木は足元を指さした。青ざめた佐々木の顔が余計に井上に嫌な予感を煽り立たせた。佐々木の指が示したのは子供たちの足跡だった。それは稽古を行っていた辺にくっきりと無数に残っていた。しかし、それ以外の砂浜にはまったく窪みが見当たらなかった。
次の瞬間、暮れゆく無枯村に忌み知れない物がいることを悟った二人は、その場から逃れるように子供のように息を切らせて民宿までダッシュした。
部屋に戻ると先に帰っていた横山と水野がちゃぶ台を挟んで向かい合わせに座り、御札のような数枚の短冊を広げて眺めていた。井上は何だろう? と思って水野に訊ねた。すると、
「風呂屋の切符だってさ。さっき、おばさんが持ってきたぞ」
「ここって、風呂に入るのにわざわざそんなもんがいるのか」
佐々木が今にも吹き出しそうな顔で言った。
「ちがう、ちがう。この宿には風呂はないんだよ」
「嘘!」
思わず井上は絶句した。風呂のない宿など有り得ない話だった。
「風呂屋はこの先の角の祠の裏にあるらしい。こいつはそこの切符だそうだ」
「マジかよ。面倒臭えなぁ」
疲れで少々気が立っていた井上が零した。
「今は先輩たちが行ってるから、帰ったらおまえらも行くだろ?」
横山が訊ねた。
「しょうがないだろ! 後輩たちは俺たちの後に入るつもりなんだから、早く行ってやらないとなぁ。な?」
佐々木が井上に振った。
「まあな」
うなだれて井上は言った。
井上と佐々木が着替えを済ませた頃、ギィー、ギィー、ギィー! と階段を登る複数の足音と、それに合わせて複数の低音でやけに響く声が聞こえてきた。どうやら先輩たちが返ってきたらしい。ギィー、バタン! 部屋のドアを閉める音が振動を伴って響いたとき、水野が立ち上がった。
「行くぞ!」
風呂屋は無枯荘の前の通りを南に20メートルほど進み、左手の角の祠の路地を入った奥にあった。実に奇妙な風呂屋だった。建物は銭湯の佇まいを見せていない。まるでお堂のようなそれは入口に、向かって左手に男湯、右手に女湯と書かれた暖簾が掛かっていた。屋根を見上げると煙を吐いている煙突の姿は見えない。これってもしかして温泉じゃあ? ふと暖簾に目をやると隅のほうに小さく「観音温泉」と書いてあった。
なんだ、やっぱ温泉じゃねえか。
井上たちは男湯の暖簾を潜った。暖簾を潜ってすぐ右手に番台があったが、店番をしている人の姿はなかった。代わりに「切符入れ」と書かれたお盆のような古い艶のある木箱が一つ置いてあって、中には数枚の切符が入っていた。先輩たちが置いて行った物にちがいない。四人はそう思って、自分の切符を投げ込んで脱衣場へと上がった。
服を脱ぎ無造作に棚に置かれた籐で編まれた籠に服を投げ込むと、井上は洗い場を隔てる木製の引き戸に手をかけた。キュッ、キュッ、キューッ! 湿気のせいで簡単にはスライドしてくれない。どうにか力任せに押し開き、四人は入ることができた。中は湯気が立ち込めて先が見えないほどだった。3メートルほど前に進むと湯船がすぐ足元にあることに気づいた。直径2メートル程の円形で岩で縁取られ隙間をセメントのような粘土で固めた湯船だった。温泉特有の硫黄の匂いが鼻を衝かない奇妙な温泉に、四人はゆっくり身体を沈めていった。
誰一人として口を開く者はいない。いやあ、極楽極楽! 井上は一人心の中でそう呟いていた。他の三人に目をやると、皆瞼を閉じたまま眉間に皺を寄せて長い息を吐いている。連中も極楽気分を味わっているにちがいない。井上は妙に爺臭い自分たちが滑稽でならなかった。
湯船に漬かること五分、引き戸が閉まる音がして四人は目を開いた。四人は固い引き戸は開けたままだった。照明の明かりを白く反射させて立ち込める湯気の向こうに、子供が立っているのが見えた。しかもそれは一人や二人じゃない。井上はざっと頭の数を数えてみた。1、2、3、…、12、13。大人4人でも一杯の小さな湯船に一度に13人の子供は到底無理だった。井上はそう思うと湯船からさっさと出て身体も流さずに脱衣場に向かおうとした。するとそのとき、
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