「私はそのとき親に連れられて、八幡浜に住んどる親戚の葬式で前の日から行っとったもんで。それで無事やったんです。村に残っとった者は大人も子供も皆、流されてしまいました。突然の土石流に何もできんかったんです。船も皆流されて逃げ場を失ってしもたんです。家にもんたらワヤでした。当時はこの村と余所を繋ぐ道はのうて、お客さんらが通られた祓橋の向こうには道はまだできてなかったんです。あの道ができたんはその土砂崩れの大分後で、それまでは橋の向こうは山やったんです。道路ができるまでは渡船で余所に行っとりました。
あの事故の後は出稼ぎで離れとった者は、皆ここを捨てて出て行きました。村の学校も流されてしまい、先生も生徒も皆流されてしまいましたんでね。皆おらんなってしまいましたから、私らも八幡浜に引っ越したんですよ。私はそのまま高校、就職とずっとここを離れとりましたけど、ここに道ができたことを知って返ってきたわけです。この山の向こうに大きなダムもできたことで、もう土砂崩れの恐れがないことを知るとそれまで村を離れとった者も、年に何度か別荘感覚で返ってくるようになりましてた。まあこうして人は少ないですが以前のような村のような形に戻ったんです。
村というても、昔出稼ぎに出た者が老後をのんびり過ごすために、たまに返ってきよるだけですがね。ですから人気は時期によってまちまちです。秋から春にかけてはほとんど人はおりません。年中おるんは私らだけですわ」
男の顔に再び笑みが伺えた。井上たちはその笑みに釣られて再び箸を動かしはじめた。
「ということは、ここは長いあいだ誰もいなかった時期があったんですね?」
水野が訊ねた。
「ええ。事故があって道路が繋がるまでの約30年ちょっとのあいだは、誰もおらなんだと思います」
「そうですか」
「この村は年寄りしかこんけん、お客さんらのような若い方がこられたら活気が出てええんですがね」
男の笑顔が更に増した。井上たちは感慨深く男の心中を察しながら黙って料理を咀嚼していた。
「あのぉ、ちょっと訊き難いことなんですけど」
水野が男の顔をちらちら横目で伺いながら訊ねた。
「なんでしょうか? なんでも遠慮せんと訊いて下さい」
男は気さくに応えた。
「隣の部屋のことなんですが」
水野は遠慮がちに言った。
「ええ」
「随分前からドアが打ちつけられてるようですけど、所謂開かずの間なんでしょうか?」
水野は話終わるに連れて話す速度を上げて一気に言った。水野のこの疑問は部員全員が関心するとこだった。井上たちは男の顔から視線を逸らさず、表情の変化を一瞬でも逃すまいと注意深く目を凝らして見ていた。
「ハハハハハッ! やっぱりお客さんも気になるようですね。家内はそのことをいいませんでしたか?」
笑いながら男は言った。女はやはり男の奥さんだった。
「何も」
水野が身を乗り出して言った。
「恐らくお客さんらは奇怪しなことを思とったんでしょうなぁ。ハハハハハッ!」
男が笑い止むことはなかった。
「お化けが出る部屋じゃないんですか?」
水野が恐る恐る訊いた。
「いえいえ、お化けなんてとんでもない。お化けとは反対の者がおりますよ」
笑顔のまま驚きの表情を上乗せして目を丸くして男は応えた。
「お化けの反対って何です?」
血走った目で水野が訊ねた。
「観音さんをお祀りしとんですよ」
男は四人の顔を見渡して言った。
「観音さん?」
それまで口を噤んでいた横山が口を開いた。
「ええ。ここは今もお話ししましたように、昔から土砂災害が起こっとりましたんでね、村にあった寺もそのたんびに流されたんです。建て直すたんびに流されるもんじゃけん、その内もう建てんようになって。坊主もいつの頃からかこの村にはおらんようになってしもたらしいですしね。それでお寺さんに納めとった観音さんを、どこぞに保管せんといかんいうことで色々検討したそうです。この家は造りがしっかりしとったもんじゃけん、今まで一度も土砂崩れで流されたことがなかったんで、ここに祀ったらどうじゃということになったそうなんですよ。それ以来ずうっと私らの家の者が観音さんの世話をするようになったわけです。お客さんの思とるような恐ろしいことは何も起こりゃせんけん、安心して下さい」
男は始終笑顔を絶やすことはなかった。水野は一応男の話に納得できたような表情を見せたが、まだ釈然としない気持ちが残っているようだった。
「それにしても長いことドアが開けられたことはないようですね?」
水野が訊ねた。
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