「おい、先輩の様子ちょっと変じゃないか?」
朝食を終えた一行は、前日行われたように浜辺で稽古に汗を流していた。午前9時、軽い筋トレを二人ペアで行った後、整列し直していつもの基本稽古がはじまった。いつものように指揮を取るのは主将の大沢と副主将の西村。しかし、奇妙なことにいつもの覇気が二人からは見られない。正拳突きの号令に隠れて、佐々木が小さな声で言った。
確かに二人の顔色は悪く、構えた姿勢も腰が浮いててふらふらしている。酒が抜けてないのか?
井上は気だるそうに号令をかける西村の様子を横目で見ていた。無枯村の夏は暑くない。砂浜での稽古がはじまって1時間が過ぎようとしていたが、井上の胴着が汗を吸い取ることはなかった。しかし、井上をはじめとする三年男子の佐々木と横山以外の全員が、胴着に汗で染みを作っている。井上には奇妙だった。誰もが汗を思う存分に吸った重い胴着に、一つ一つの動作をスローにされている。部員たちの顔にはだるさが露骨に現れ、誰も稽古に集中しようと闘志を燃やす者はいない。四年生も相当に疲労が残っているらしく、基本稽古はいつもよりも短くカットされて休憩に入った。流石に喉を潤さなければ身体が保たないのか、前日の休憩時には一滴も水分補給を摂らなかった大沢たちも浴びるようにがぶがぶ水を呷っていた。誰も話そうとしない。相当参っているようだ。
「なぁ、佐々木。俺、全然汗掻かないんだけど、どっか具合悪いんかなぁ?」
他の連中と全然異なる自分に不安を抱いた井上は訊ねた。
「奇怪しくないだろ。俺も全然汗掻いてないもん。あんなスローな稽古で胴着びっしょり汗で濡らしている連中のほうが奇怪しいんだよ。昨日同様に昼間というのに太陽は山の影をこの浜全体に落としてるんだぜ。全然暑さがない。逆に涼しくて気持ちいいくらいだ」
佐々木が言うように、暑さはまったく感じられず、山から吹き下ろしてくる風が涼しくて気持ちよかった。それにしても奇妙だった。汗を掻いてぐったりしている連中の中には目の下にクマを作っている者もいる。まるで一睡もしなかったように見える。布団の上に横になるなりすっかり記憶喪失になってしまった井上には、連中の不調があまりにも異常に思えてならなかった。
「おい、水野」
佐々木が砂浜に大の字で寝ころがっている水野に声を掛けた。
「んん?」
気だるい声が微かに返ってきた。
「相当しんどそうだが、眠れなかったのか?」
「うん。眠れたような眠れなかったような。夢なのか現実なのかよくわからん状態がずうっと朝までつづいてたんでな」
「別に眠れないほど暑かったわけでもなかったのに。おまえ、怖いことばかり考えてたから、神経過敏でぐっすり眠れなかったんだな」
佐々木の質問に水野は応えようとはしなかった。黙りこくったまま目を見開いた状態でどんよりとした灰色の空を眺めている。
「おい、水野。もしかして本当に幽霊でも見たのか?」
横山がからかい半分に声を掛けた。すると、水野は凄い勢いで上体を起こして三人のすぐ傍まで這って近づき「出たんだよ!」と小さな声で言った。三人が三人とも真に受けようとしない。だが、水野の顔からは血の気がさっと引き、唇も僅かに震えていた。流石にその様子に冗談ではないと思った三人は水野に話を詳しく訊くことにした。
「確かに俺たちの窓のところまで大勢の人がきてたんだ! 本当におまえらには聞こえなかったのか? すっごくデカイ音でドンドン、ドンドン、窓や壁を叩いてたのに。本当に何にも聞こえなかったのか! やっぱ御札がなかったからなのかなぁ?」
水野は夜中に窓を打ち鳴らす音で寝付けなかったと言い、それがお化けの仕業にちがいないと思い込んで怯えていた。更にお化けがきたのは部屋に魔除けの御札が貼られてなかったからだと思っている。三人にはそれは水野のただの思い過ごしにしか思えなかった。
「御札が貼ってなかったからお化けが出たってのはなぁ…。民宿のおばさんもお化けは出ないって断言してたし、それにおやじの話だと、あの部屋の隣には観音様が祀られてるんだぞ。やっぱおまえがお化けのことばかり考えてたからそんな幻聴を聞いてしまったんだよ。まあ、おまえがだるそうにしてた理由はわかったけど、他の連中はどうしてなんだろうな? おまえ何か知らないか? 皆んな夜中まで起きて騒いでたとか」
井上は水野の不安を晴らすように励まして言った。
「いいや、全然物音一つしなかった。凄く静かでそれが余計に不気味だったんだ」
水野の話からは他の部員たちが何故だるそうにしているのかわからなかった。そこで井上は加藤にその理由を訊いてみることにした。井上は二年生同士で固まっている加藤を呼び寄せると、皆んながだるそうにしている理由を訊ねた。
「押忍。昨日の晩、生まれて初めての事でしたけど俺金縛りに遇いましたよ。夢なのか現実なのかわからないけど、見たんです。すぐ傍を複数の小さな足が擦り足で滑っていくのを。俺、怖くて目を閉じようとしたけど全然できなくて、身体は動かないし息は詰まって苦しくなるはで、ほんと死ぬかと思いました。俺は四人並んだ真ん中で寝てたんですけど、両隣の二人をどうにか横目で見たんです。すると横の二人も俺と同じように金縛りに遇ってて、俺と目が合うと本当に怖かったのか涙を流したんです。俺たちは金縛りが解かれるまで複数の小さな足が滑るのを見せつけられたんです。俺は勇気を振り絞ってその足の正体を確かめようとしたんですけど」
そこまで言って加藤は口を噤んだ。声が震えて上手く音にならず、思うように話せないでいる。
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