「でっ、何が見えたんだ!」
水野が眉間に皺を寄せ加藤に迫った。
「何も見えませんでした」
深呼吸を大きく二度して加藤は呟くように言った。
「何も見えなかったって、どういうことだ?」
佐々木が訊き返した。
「顔がなかったんです。顔だけじゃない。身体もです。よく見ると俺に見えてた物は踝から先の足だけだったんです。ちょうど靴を履いたときに隠れる部分。ただそれだけの足が、いくつも俺たちの傍を擦り足で滑ってました」
「それって一年、いや他の連中も見たんだろうか?」
佐々木が冷静を繕って加藤に訊ねた。
「押忍。大沢さんたち四年の先輩方も、昨晩はそいつのせいで眠れなかったといわれてました。部員たち全員なんですけど、先輩は見なかったんですか?」
加藤は深いため息を何度も吐きながら言った。
「俺たちは寝てたから知らないんだけどな。水野は窓を叩く音で眠れなかったらしい」
井上は言った。井上たちは話を聞くと加藤を返した。井上たちは加藤の後ろ姿をじっと見ていた。それは加藤の動向が気になったからではなく、無枯村の風景を視界に納めたくないという本能的な行動だった。部員たちの誰もが、村の風景に紛れ込んだ亡霊の影に怯えていた。
「御札が貼ってあった部屋なのになぁ。足が滑ってたなんて。あの御札のせいで逆にお化けを呼び寄せたんじゃないかな?」
調子者の横山が適当なことを言った。
「そうかもな」
井上は横山の意見に釣られて自分たちの部屋に御札が貼られてなかったことに感謝したが、同時にお化けを見逃してしまったという悔いも感じていた。しかし、新たな疑問が顔を覗かせることになった。
どうして、あの部屋には御札が貼られてなかったんだろう?
ぐったり疲れ切ってしまい稽古に集中できそうにない部員たちの様子を見て、主将の大沢は稽古の中止を知らせた。大沢も部員たちが昨晩の不可思議な現象で一睡もできなかったことを理解していた。もし大沢が昨晩の経験をしていなければ、稽古を途中で中止すると告げることはなかっただろう。部員の中でも取り分け主将である大沢が一番疲れているように見えた。
大沢は合宿の中止も考えているようだった。二泊三日の予定で組まれた合宿をこのまま予定通り続行するのであれば、もう一晩あの民宿で夜を過ごさなければならない。四年生だから、先輩だから、主将だからお化けなんて気にならないと言える精神状態には見えなかった。大沢は精神面での強さも空手の稽古で養われたと言っていたが、実際には常識では考えられない物を目の当たりにしたとき、ただ身体を震わして言葉を失うことしかできなかった。大沢は口だけの臆病者だった。
稽古が中止と告げられても誰一人として民宿に帰ろうとしない。誰もが無枯荘で体験した不可思議な現象に背筋の凍る思いをしたのだから、あの薄暗い部屋に近寄りたくないのも当然だった。部員たちは口を閉ざしたまま、誰も身体を動かそうとする者はいなかった。その日の稽古が中止になったことは、充分に睡眠を取れた井上たちにとっては暇でしかなかった。前日は無枯村に着くなり開始された稽古に、疲れのあまり集中できなかったが、体力が回復した今は時間が勿体なく感じられて仕方なかった。
井上が三年生同士で空手談義に花を咲かせているときだった。大沢に呼ばれる声がしてふと振り向くと、大沢のいる四年生たちの傍に大勢の子供たちが集まり、四年生たちが何やら笑顔で相手をしていた。どうやら、昨日稽古を見物していた子供たちのようだ。佐々木はまだこの子たちを亡霊だと思っているのだろうか? その日砂浜に現れた子供たちは、次から次へとどこからともなく集まり、みるみる内に四年生たちを取り囲んでしまった。四年生たちが笑顔で子供の相手をしていることからも体調は大分良くなったみたいだ。
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