無枯村から帰って三日後、井上は午後4時に大学の道場に顔を出した。その日から大学は前期試験に入った。稽古は試験が終わるまでの一週間休みになっていたが、ミーティングのために集められることになった。道場には既に半分以上の部員たちが集まっていた。中にはサンドバッグに打ち込んでいる者や、私服のまま軽いスパーリングで汗を流している者もいる。試験を受けるのが初めての一年生たちの緊張とは異なり、大学の試験がどんなものか慣れている上級生たちは、試験期間とは思えないような普段の日よりもだらだらしている者も少なくなかった。井上もその一人だった。
井上は鞄を道場の隅に置くと、軽く柔軟して股関節と膝をほぐすと、近くにいた下級生に声を掛けてスパーリングの相手に誘った。下級生は先輩からスパーリングの相手を誘われるのは嬉しいものだ。経験の勝る先輩と交えるスパーリングは自分のレベルを確認して課題を見い出すきっかけになる。更には先輩と親しくなれるチャンスでもあった。基本的に同好会とは言え、体育会系の縦社会が大きくウェイトを占める組織では、先輩と後輩のあいだには大きな隔たりがあった。多くの部員がこの先輩、後輩のあいだを仕切る隔たりの前に、意思の疎通が上手く取れないでいた。井上は一分程度の軽いスパーリングを数人の下級生たちと交代で行った。
主将の大沢は指定した時刻に30分も遅れて現れた。不機嫌そうな表情には濃い影が走り、随分やつれて見える。就職活動の成果に手応えはなく、将来の不安から精神的にかなり焦りと迷いが伸し掛かっているようだ。
いつものことだけど、今日は取り分け機嫌が悪そうだなぁ…。
井上が大沢を見るのは無枯村で別れて以来だった。あの日以来大沢から連絡をもらうこともなく、逆にその何も連絡がないことが不安でもあった。大沢につづいて三、四年の女性部員が一度に姿を現した。これで部員たち全員が道場に集合したわけだが、大沢の疲れ切った顔を見ていたせいか、後からやってきた女性部員たちの表情もどことなく暗く思えた。いつもなら道場内で何かとお喋りが絶えず先輩から注意を受ける彼女たちが、その日は道場に入るときに小さな声で一礼したきり声を漏らすことはなかった。
全員が揃ったところでミーティングは開かれた。その日の内容は言うまでもなく、先日の合宿の反省会だった。司会進行を勤める大沢が部員一人一人に合宿を通して気づいた点を述べるように言ったが、誰もがどう応えてよいのか言葉に迷った。何故なら合宿場で稽古したことは、わざわざそこにまで赴いてしなければならない内容ではなく、普段の稽古のほうが断然充実したメニューを消化していたからだ。一年生から反省が述べられたが、最初の男がしばらく考えた末に「スタミナのなさを痛感しました!」と言うと、次の者もそれを真似て結局全員がその言葉で終わってしまった。それを聞く大沢自身、反省すべきことが空手の稽古からは見つけられなかった。大沢はため息のような大きな吐息を数回吐くと、向井から話があると言って壁に凭れて腰を降ろした。つづいて大沢の紹介を受けた向井が話しはじめた。
向井は何を躊躇っているのか、もじもじしてすぐに話し出そうとしない。
人前で話すことが恥ずかしい? まさか、それはないな! でしゃばりのアイツはどんなときでも自分が中心でなければ気が済まないはずだ。常に注目されることを望んでいた。ったく、さっさと話せよ! このでしゃばり小姑!
井上は心の中で毒づいた。すると、
「あのぉ、ええと、そのぉ」
井上の心の中の叫びが聞こえたのだろうか? 向井が途端に何かを言い出そうとしたので井上は驚いた。そして向井は何やら束になった塊を、手に持った紙袋から取り出し、畳の上にいくつかの束に分けて置くと、ようやく重い口を開いた。
「押忍! これは先日の合宿のときに私のデジカメで撮ったものなんですけど、ちょっと変なんです。皆さん自分が写っている写真を見てもらえますか」
一同はそれぞれ自分が写っている写真を探して見回った。
「あれっ! この写真、俺しか写ってない!」
写真を手に取り、一年の男が叫んだ。そして次々に、
「あ、ほんとだっ! 私も独りで写ってる!」
「どうなってんだ! 俺の回りには子供たちがいたのに!」
写真を手にした誰もが驚愕の声を上げ、引きつった表情に一変した。写真を見て背筋の凍る想いをしたのか、
「井上! おまえちゃんと撮ったんだろうな?」
副主将の西村が強い口調で井上を睨みつけた。井上は突然の西村の声に驚き、緊張のあまり頭の中が錯乱状態になってしまった。
ええっ! マジで写ってねえのか? そんなはずはねえだろ? 俺はちゃんと撮ってやっただろっ! 西村の野郎、なんで俺のせいにすんだよ!
「押忍! 先輩、先輩を撮ったとき、先輩は子供たちと同じようにこうやってポーズしましたよね?」
井上はそのとき西村がしたように跪いて合掌するポーズを西村にして見せた。
「ああ、やったよ。だから俺はそのポーズで写ってるよ。でも俺独りしか写ってないぞ!」
はあ? 何いってんの? そんなこと知るかよ!
誰もが写真を撮った井上のせいではないことくらいわかっていた。だが理由がわからないだけに、四年生たちは写真に現れた奇妙な現象を井上の撮影ミスにしようとした。井上はその場をどのように凌いでいいのかわからなかった。するとそのとき加藤がざわめく道場に水を打つような叫び声を上げた。
「あの写真と同じだ!」
その声に部員の誰もが一斉に加藤に目を向けた。
「おまえがいってたのって、こういうことだったのか!」
二年の男が怯える声で加藤に訊ねた。
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