「明日の試験、大丈夫?」
無枯村に向かう車の中で由香は水野と小山に訊ねた。夏休み前に行われる前期試験ははじまったばかりだった。三人が無枯村に向かったのは夕方の六時を過ぎていた。無枯村に到着する頃には辺りは夜の闇に覆われているだろう。
「もし落としても来年取ればいいよ。後がない四年はヤバイだろうけどね」
不安を掃うように水野が応えたが、それは由香に対してと言うよりも意図的に助手席に座らせた小山を気遣ってのものだった。荒れる海を右手に南下する車の中はまるでお通夜のような静けさに包まれていた。土砂降りの闇の中、大洲を辺りで不意に由香が二人に訊ねた。
「何でだろう? 二人ともあの石持って返らなかったのに、どうして子供たち写ってなかったんだろう?」
二人に訊ねる由香の声は日頃の横柄さはなかった。
「そうなんだよな? 俺は民宿のおばさんの忠告を守って、あの村にある物は何も持って帰らなかったんだ。俺が泊まった部屋、あそこにも向井さんたちが見たお化けが出たからね。でもそれに気づいたのは俺一人だけ。他の連中は皆んな鼾を掻いて眠ってたんだ。凄い勢いで窓を叩く音がして、正直、怖くて堪らなかったよ。あんな怖い思いをしたのは生まれて初めてだ。だから、余計にあの村を思い出すような物は持ち帰りたくなかったんだ」
水野は布団の中でぶるぶる震えていた晩のことを思い出していた。できればそれは口にしたくなかったが、女性二人の心に伸しかかっている忌み知れぬ不安を和らげるために話すことにした。しかし由香が訊ねたこと、それはふとそう訊ねられるまで水野の意識には横たわらなかった疑問だった。水野は不意に背筋に冷たいものを感じた。瞬時に背中から二の腕に掛けて波打つように鳥肌が立った。
「確かに奇怪しいよな…」
水野は逃れることのできない不安が自分の知らないところで密かに自分を取り囲んでいたことに気づいた。
「なんで? どうして私の写真からも消えちゃったんだろう」
小山の震える声が車の屋根に激しく打ちつける雨の音に掻き消された。
一体どういうことだ? 加藤の説明だと写真から子供たちが消えたのは、あの石を移動させてしまったことが原因だったはずだ。なのに子供たちの姿は俺の写真には一人も写っていなかった。石の祟りではないってことのか?
水野は闇を貫くヘッドライトの先を追いながら、この不可思議な現象を引き起こした原因を探っていた。車は頭を西に向け、既にメロディーライン上を走っていた。
「石を元に戻したところで、何も変わらないんじゃないかしら」
由香が涙を目に溜めて吐き捨てるように言った。水野と小山には由香に慰めの言葉を返してやることはできなかった。二人はもう由香を気遣えない状況に陥っていた。加藤の友人の話は他人事ではなくなっていた。いつしか車は乾いた道路の上を走っていた。三人にはいつ雨が止んだのかも気がつかなかった。乾いた闇の中を車は更に西へ西へ突き進んだ。誰もが死がすぐそこまで押し迫っているかもしれないという不確かな不安に怯えている。会話が途絶えた車内にラジオの音が流れていた。最近売出し中のタレントが面白可笑しくリスナーに応えようとしていたが、三人の心から不安を取り除くことはできなかった。
ちょうどその頃、加藤は東雲荘の自室でノートに目を通していた。夕立が去った夜は殊更に蒸し暑つく、試験勉強に集中するどころではない。土砂降りは雷と共に消え去り、松山の夜はいつもと変わらない賑わいを見せていた。空は綺麗に晴れ渡り雲一つない澄みきった星空を見せている。城山の頂上にそびえ立つ天守閣が白光にライトアップされている。二年生の中で一人だけ石を持ち帰らなかった彼は、無枯村に向かった部員たちの気持ちを余所に翌日の試験に意識を働かせていた。復習が完了したのは午前二時のことだった。部屋の中央の天井に吊るされた裸電球の明かりを消すと、一瞬にして部屋は真っ暗闇に包まれた。加藤は疲れた目を擦りながら熱気で温まった布団の上にごろりと横になった。身体が異常にだるくて重い。眠気を覚えて横になってみたものの、一向に深い眠りに入ることはなかった。
何だよぉ。疲れてるのに暑くて眠れやしない!
加藤の部屋には窓枠に備えつけられた古いクーラーがあった。しかし、加藤はそれを使おうとはしなかった。以前一度だけ使ったことがあったが、騒音と振動の激しさで寝るどころではなかった。
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