長い夏休みもアッという間に終わり、季節はもう夏の濃い緑から赤色に移り変わろうとしていた。夏休みのあいだ人気もなく静まり返っていた学内は一変して、学園祭の準備に取り掛かる気の早い学生たちで活気に満ちていた。後期授業がはじまったその日、井上は授業はなかったが部員たちに逢いに部室を訪れた。
午後零時。この時間に部室に顔を出せばいつでも誰かがいるものだ。井上は部室に近づくに連れて、歩く速度を上げてドアを開いた。いつもの部室が覗けた。佐々木と横山がタバコを吹かしながら雑誌を開いていた。
井上は夏休みのあいだはこの二人とは逢わなかった。横山は毎年、8月になると帰省して、後期がはじまるまで返ってくることはなかった。佐々木は井上と同じ松山の出身だった。互いにアルバイトで夏休みを埋めた二人が、連絡を取り合うことはなかった。井上は一人暮らしの横山を見て思った。
一度でいいから、学生中に一人暮らししてぇ! 俺も佐々木も未だに実家通いだ。社会人になってから一人暮らししても自由はないもんなぁ…。やっぱ超楽な学生のあいだがいいよなぁ。
井上はグローブとサポーターしか入っていないリュックサックを床に降ろすと、佐々木の横に座った。佐々木と横山は格闘技雑誌を食い入るように見ている。
ったく、そんな物ばっか見てよく飽きねえよな!
「なるほど…」
記事に感心するコイツらの頭の中は、空手のことしかないんだろうなぁ。
井上が部室に入って30分が過ぎようとしていたが、一向に他の部員は顔を見せなかった。雑誌に夢中の二人が構ってくれない部室は、退屈な場所でしかなかった。
「それにしても、今日は皆んな遅いなぁ? なあ、他に誰かきた?」
井上は痺れを切らせて二人に訊ねた。
「誰かねぇ…? まだきてないんじゃない? 俺は見てないよ」
佐々木が雑誌から目は逸らさずに応えた。
「多分、初日だから皆んなこないよ。暇なのは俺らだけじゃない? 授業だって、まともにはじまるのは来週くらいからだろ。練習も確か、確か…? あれ? 練習っていつからはじまんの?」
横山が雑誌からはじめて目を放して井上に訊ねた。井上は首を傾げて、「さあ?」と返して、佐々木に視線を移したものの佐々木は今読んでいる記事のほうが大事とばかりに聞こえてないふりをした。
「おい、佐々木! おまえ、先輩から聞いてない?」
横山が訊ねた。
「聞いてないよ」
即座に返した佐々木は尚も雑誌に釘付け状態だ。誰も現れないまま更に30分が過ぎた。ようやく雑誌を満足に読み終えた佐々木が一言、
「先輩たち何もいわなかっただろ」
井上たちが忘れかけていたことを何気なく言った。井上は記憶を辿った。
先輩が後期の練習をいつからはじめるといったか思い出せぇ!
だが、まったく思い出せない。佐々木が言うように、先輩は何も言わなかったような気がしてきた。
「絶対にいってないよなぁ!」
井上はちょっと驚いた顔で言った。佐々木と横山は二人ともうんうんと首を縦に振っている。
「他の部員からも連絡なかったけど、おまえらにも当然そんなもんなかったよなぁ?」
横山が二人に訊ねた。井上と佐々木は首を縦に振って応えた。
「学生選手権って、今月の末だったよなぁ?」
佐々木が思い出して言った。
「今年は誰か出るん?」
井上が興味なさそうに訊いた。
「四年は全員出るんじゃない?」
佐々木も無関心の様子だった。
「マジで?」
驚いた顔で横山が言った。
「大会出るから夏休みはスタミナトレーニングするって、大沢がいってたぞ」
佐々木が言った。
「大沢さん以外は出たってどうせ一回戦で終わりだろ。記念で出場するつもりなのかなぁ? ところで応援って、あれって全員ついて行かなきゃヤバイ?」
井上が嫌そうな顔で訊ねた。
「別にいいんじゃない? 行きたいやつだけが行けば」
佐々木が素っ気なく言った。三年生の中で学生選手権に出場しようと考えている者は一人もいなかった。それはつまりそこまで空手には興味がないということだった。彼らにとって空手は単なる健康管理の一つでしかなく、人生を掛けてまで学ぼうという気は毛頭なかった。
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