佐々木が示したアパートは相当年季の入った木造二階建ての建物だった。住宅が密集する中に一際濃い影に埋もれた様相は、ある意味合宿で泊まった無枯荘以上に不気味な雰囲気を漂わせていた。
「アイツよくこんなとこに住めるよなぁ」
身震いしながら、井上は言葉を漏らした。
「住んでる人間は皆うちの学生らしいよ」
佐々木が言った。
玄関を開けるとトイレのアンモニア臭がツンと鼻を衝いた。ドアを開けたすぐのところに郵便受けを兼ねた下駄箱があり、そこで加藤の部屋の位置を知ることができた。二階の角部屋だ。井上は早速靴を脱いで階段を駆け登ろうとした。すると、
「ちょっと待て!」
井上と横山に向かって佐々木が、危険を知らせるような緊迫した声で二人の動きを制止した。
「なんだよ! ビックリするだろ!」
佐々木の声に驚いた横山が振り向き様に返した。見ると佐々木の様子が奇怪しい。顎がガタガタ鳴らし、吐息が震えている。
「佐々木! どうした!」
井上は佐々木に駆け寄って訊ねた。佐々木は下駄箱を指さしたまま、視線を下駄箱から放そうとしない。井上と横山は佐々木の指が示す下駄箱をじっと睨みつけるように見た。見たところ何も奇怪しなところはない。
妙だなぁ? 佐々木は何にビビってんだ?
「佐々木、どうしたんだ?」
怪訝に思い井上は訊ねた。
「こ、このアパート。加藤、アイツ一人で住んでるぞ…」
佐々木の声が震えていた。確かに下駄箱には加藤の名前以外は他の住人の名前は書かれていない。井上と横山には何故佐々木がそんなことくらいで震え上がってしまったのか理解できなかった。
「俺聞いたんだ」
佐々木が再び声を震わせた。
「何を?」
井上が訊ねた。
「最近、大学近くの古いアパートで次々と住人が引っ越してるところがあるって」
井上と横山にはそんなことでどうして震えているのか疑問だった。
「そのアパートを引き払った学生の話によると、出るようになったらしいんだ。幽霊が。それも大勢の子供のな」
子供の幽霊と聞いた瞬間、井上と横山は心臓がそのまま分厚い胸筋を突き破って飛び出しそうなくらいの激しい動悸に変わったのがわかった。三人は子供や幽霊という言葉に敏感だった。無枯村で遭遇した子供たちがその出没の不明な点から、勝手に幽霊扱いしていたからだ。
「こ、子供の、幽霊?」
横山が生唾を音を立ててゆっくり飲み込みながら訊き返した。
「か、角部屋。二階の角部屋から出てくるって」
そう言いながら、再び佐々木は下駄箱に書かれた加藤の名前を指さした。
「それが、ここ、なのか?」
井上は下駄箱に書かれた加藤の名前を横目で確認しながら訊ねた。確かに加藤の部屋は二階の角部屋になっていた。
「は、話によると、今は角部屋の幽霊の出る部屋以外は空き部屋になってるって」
そう言うなり、佐々木は血相を変えてその場から逃げ出そうとした。佐々木の話を聞いている内に、井上も横山も激しく打ちつける動悸のあまり呼吸が苦しくなり、その場にいられなくなった。
「角部屋に住んでるのはおやじなんだってよ! 学生しか住めないアパートなのに、50過ぎのおっさんが住むようになったって。それから子供の幽霊も出るようになったらしい」
その場の雰囲気に耐えきれず一足先に表に出た佐々木が、玄関で慌てて靴を履いている二人に早口で言った。井上も横山も耳鳴りがするくらい心臓を縮ませていた。一刻も早くこのアパートから立ち去らなければならないと本能的に感じた。そのときだった。
バタバタバタバタバタッ!
ドンドンドンドンドンッ!
二階から廊下を駆ける複数の足音が聞こえてきた。
「なんだ今の!」
息を詰まらせて井上は二人に訊ねた。
「やっぱここなんだよ。子供の幽霊が出るアパートは!」
驚きのあまり腰を抜かした横山が、外に這い出ながら叫んだ。
「で、でもまだ昼の2時だぞ! 幽霊って昼間でも出んのかよ! 今の足音、本当に幽霊のか? 生きてる人じゃないのか」
井上は動揺を振り払うように叫んでアパートから飛び出した。
「幽霊だよ! あの村だって昼間でも子供の幽霊が見えてただろ!」
佐々木が気が狂れたように叫んで、その場に膝から崩れた。そのとき井上は加藤から聞いた無枯村を訪れた友人の話を思い出した。
「加藤の友達の話憶えてるか? 加藤の友達、ソイツは子供の幻覚を相手に父親になったつもりになってた。つもり? つもりなんてもんじゃない! その容姿はおやじに変わってたっていっただろ。加藤も、アイツも友達と同じ様になってしまったんだ」
井上はそう言うと光を求めて走って逃げて行った。井上の後を追って佐々木と横山が腰を抜かした状態で這ってきた。いくら空手を通じて精神を鍛練してきたとは言え、幽霊を前にしては何も意味をなさなかった。幽霊に肝を潰された二人には恥や外聞のことまで冷静に考えるゆとりはなかった。
東雲荘を囲む一画は不思議と陽の光を拒んでいるように感じた。それはまるであの昼間でも薄暗い無枯村のようでもあった。三人は息が切れても、切れても東雲荘が見えなくなる場所まで駆けた。少しでも立ち止まればアパートに棲みついた子供たちの亡霊に引きずり込まれると思い、三人は後ろを振り返ることなく全速力で逃げた。部屋に引きずり込まれたなら、もう二度と陽の光は見られないように思えて怖くて堪らなかった。
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