無枯村に向かう一行は、メロディーラインを走っていた。時刻は午前7時半を過ぎ、辺りはすっかり秋の朝を迎えていた。朝日を反射させる風車の頭が見えた。早朝のこの時間、岬の先端に向う車は見えない。佐々木は見通しのよい空いた道を軽快に飛ばした。
三人は村に近づくに連れ、本能が訴える身の毛の弥立つものを感じていた。それは虫の知らせだったのかもしれない。鳥肌が全身に走り、寒気に身を縮ませていた。無枯村に入ること誰もが拒んでいた。黙ったまま視線は一点に向けられ動かそうとしない。
ふと静けさが占領していた車内に寝息のような音が聞こえてきた。後部座席で足を投げ出す格好で横山が気持ち良さそうに眠っている。横山の寝息は微かな響きを奏でていた。しかし、静かでゆっくりしたリズムの呼吸かと思うと、突然息を詰まらせてリズムを崩し、時折唸り声を上げて苦しんでいた。佐々木はこの横山の苦しそうな様子に、仮眠中に見た不気味な夢を思い出していた。
しかし、あんなことになるなんて、夢の中の出来事とはいえ気分悪いなぁ。あれは間違いなくあの民宿だった。あの民宿、あそこには必ず何かあるにちがいない。俺の足に巻き付いたロープを手繰り寄せていた腕は細くて青白く、まるで子供か女性の腕のようだった。それにしても外観からは想像できない程の怪力振りだったなぁ。
佐々木はふと隣の井上をちらっと見て思った。
さっき見た夢にコイツがいた。何も知らずにあの民宿の入口から外を覗いていた。全身が傷つきぐったり倒れ込んだ俺に気づかず、傍を通ってドアをこじ開けて外に出ようとしていた。もう少し前に井上があの民宿に現れていたら、俺のようにずたずたにされていたのかもしれない。俺が正体不明の目に見えない物に襲われていたとき、井上は一体どこにいたんだ? あの建物の中にいたのは俺一人だと思っていたが、他にも自分一人が閉じ込められていると思っているヤツがいたんだろうか? 夢が現実にならなければいいが。
佐々木には何故再び夢の中であの民宿に閉じ込められていたのか不思議でならなかった。
無枯荘を土砂が襲った。俺は二階の廊下を這っていた。何故這っていたのかわからない。一階とちがい、二階は微かな光もなく真っ暗闇だった。俺は瞼を閉じた。目を閉じても闇が変わることはなかった。俺は目を開いて真っ暗闇の空間を見渡した。しかしそこに何か見えてくることはなかった。暗闇が俺の不安を煽った。出口を探して、ただひたすら廊下を這い回った。そして突然凄い力で身体が後ろに引っ張られて床に全身を打ちつけた。気づかない内に俺の右足にはロープが結ばれていた。俺は全身を床に擦り着けながら凄い勢いで後ろへと引っ張られた。まったくわけがわからなかった。随分長いあいだ、身体が擦り切れるぐらい引き擦られた。引っ張られながら必死にもがいたが、それは無駄な抵抗に終わった。俺はいつしか抵抗を諦め、ロープの引きに身を任せていた。そして身体中に何か得体の知れない物が這うのを感じ、同時に激しい痛みを覚えた。俺はその激痛に耐えられず、夢の中で気絶してしまった。夢の中で目が覚めたとき、俺は一階の土間に横たわっていた。そしてそのとき見えた。足首から先だけの物が、俺の周りを無数に滑っているのを。何が起こったのかはわからないが、身体の至る所から痛みを感じた。自分の身に何が起こったのかわからないことが、一層俺を不安に陥れた。そのとき昨日の僧侶の話を思い出した。救い。救いを求めている。誰かが、何者かが俺に救いを求めている。ここにいては危険だと感じた。救っちゃいけない! 関われば、もう二度とここから出られなくなる! 一刻も早くこの場を去らなくては! 俺は外に出ようと必死もがいた。出口はすぐそこに見えている。傷ついた身体は神経が麻痺して言うことを聞いてくれない。丁度そのときだ。俺の傍を井上が横切ったのは。俺は井上に救いを求めて、力を振り絞って腕を伸ばした。不思議と先刻までまったく動かなかった腕が動いてくれた。気づいたときには彼の足を強く握りしめていた。
「そろそろ村に入る道が見えてきてもいい頃なんだけどなぁ。標識あったか?」
不意に井上の声が聞こえた。佐々木は悪夢の回想から解き放たれ、その視線の先は朝日に眩しく照らされるアスファルトの筋にあった。佐々木は運転に集中してた。
「あった! あそこだ!」
井上の叫び声に佐々木は左にウインカーを出して車を脇に停めた。
「一旦ここで車を停めて皆んなに村に入るこを知らせよう」
「そうだな」
二人は横山を起こすと外にでた。後続車も次々に停車していく。三人は後続車が無事であることを確認し、運転手を呼び寄せた。
「ここが村の入口です。この細い道を抜けると村に入るわけですが、僕たちの目的は村ではなく、村の入口にある川で清めることだけです。川の脇の広場に車を停めますから、皆さんは子供さんを川の中まで連れて行って下さい。多分、かなり抵抗すると思いますが絶対に、川の中まで連れて行って下さい。川はとても浅いのでご心配なく。川の水で清めない限り絶対に助かりませんから、宜しくお願いします」
井上の言葉に部員たちの家族は無言で頷き、それぞれの車に返って行った。
「じゃあ、今から突入します!」
大きな掛け声と共にクラクションを鳴らし、佐々木は発進した。三人が乗った車は細い細い村へと通じる道を慎重に慎重に進んでいた。その頃後続車の中では異常な現象が起ころうとしていた。三人はそんなことなどまったく気づくはずもなかった。井上たちの車のすぐ後を行く加藤の車の中では、村に至る脇道に入った瞬間から奇妙な事態が起こっていた。
「大丈夫! 怖くないよ! お父さんがついてるから、何も心配ないよ!」
「く、苦じい! 誰か、誰か助けてくれぇぇぇぇ! 岩が、岩に押し潰されるぅぅぅ!」
「皆、我慢するんだよ! お父さんが必ずここから出してあげるから! ウワッ! ぐ、苦じいぃぃぃぃ! 土砂に口が塞がれて息がでぎない!」
松山の下宿先からぶつぶつと独り言を言いながらも、激しく暴れ出すことのなかった加藤が、急に苦しそうに唸り声を上げて激しくもがきはじめた。何が起きたのかわからずに狼狽する母親は、咄嗟に暴れる息子の上に覆い被さり、何とか鎮めようとした。意味不明な言葉を吐きながら、もがき苦しむ息子の姿に両親は恐れおののき震え上がった。
〈お父ちゃん! 息がでぎん! 助げで!〉
「すぐに助けてあげる! 今すぐに」
〈身体が泥に締めつけられて痛い! お父ちゃん、苦じいよぉ!〉
「大丈夫だ! 今すぐに助けてあげるからね!」
加藤は誰かと確実に会話をしていた。その姿に両親は怯えた。
「お、おい、健は、この子は一体誰と話しているんだ!」
父親はバックミラー越しに後部座席を覗いて妻に訊ねた。
「わからない! わからないけど、この子、自分のことをお父さんだと思ってる。まるで誰かのお父さんになった気分でいるわ!」
母親は激しくもがき苦しむ息子を抑えながら叫んだ。
〈お父ちゃん、息がでぎん! もうダメじゃ!〉
「必ず助けてくれるからもう少しだけ我慢するんだ! 諦めちゃ駄目だ!」
〈この前のときも誰も助けてくれんかったやん!〉
「大丈夫、絶対に助けがくるはずだよ! 皆祈るんだ! 大きな声で祈って皆がここにいることを観音様にお知らせするんだ!」
〈観音様は今度はほんとに助けてくれるん?〉
「今度こそ助けて下さるよ! さあ、離れ離れにならないように足首をこの紐でしっかり結びつけるんだ!」
〈今度は切れん?〉
「大丈夫、今度は絶対に切れないからばらばらになったりはしないよ!」
加藤の父親は前の車を見失わないように必死に後を追った。後ろを振り向くのが怖かった。後部座席から漏れる息子の悲痛な叫び、それを抑えようとする妻の泣き声が父親には苦痛でならなかった。
「健ちゃん! 結ぶってこのロープで何を結ぶの!」
母親は息子に強い口調で訊ねたが、息子には母親の声は届いていなかった。
「いいかい! 皆、足にしっかりと結びつけたかい!」
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