いつしか突風は止んでいた。しかし、水の壁は一向に納まる様子はなかった。奇妙な光景だった。科学的に解明できるものなら、今すぐにそれを知りたい衝動に駆られた。今現実に目の当たりにしている不可思議な現象が、悪霊の仕業だったのかそれとも悪霊を祓った神の力だったのかわからないにしろ、それは人間には成しえない人知を超えた力だということは疑う余地はなかった。
この村から出るときの習わしを無視したために、部員たちは村を彷徨う亡霊たちに取り憑かれてしまった。民宿の主人は村に古くから伝わる言い伝えの深い意味を知らぬままに、言葉だけを受け継いでいたようだったが、この村には確実に余所者には知られては拙い秘密が目に見えない力によって守られていた。
風が止み木々のざわめきが聞こえなくなったかと思うと、今度はどこからともなく地鳴りのような轟音が聞こえてきた。ゴォー! と鳴り響く音は地面の奥深くからているように感じられた。
「何だあの音!」
禊川に入った誰もが不気味な轟音に辺りを見渡した。音は次第に大きくなった。同時に地面が大きく振動しているのがはっきりとわかった。何か途轍もなく巨大な物が迫ってきているように思え、身の危険を直感が知らせていた。
ゴォー!
辺りに響き渡る地鳴りを無視するかのように、水の壁は静かに立っていた。
「奇怪しいぞ! 何かが起こる! 駄目だ、ここにいちゃ!」
身の危険を本能的に察知した横山が声を震わせて叫んだ。確かに何かが迫ってきているということはわかっていた。だが何故か誰も禊川から上がろうとする者はなかった。
「皆さん! 早く川から出て! 早く車に乗ってここから逃げて下さい!」
横山が叫んで皆んなに指示を送った。部員たちを乗せた車が次々とエンジン音を立てて動きはじめた。
「あ! そっちじゃない!」
最初に動いた車が行き先を見失い、川を渡って村へ入って行った。それにつづいて次々と後続が追っていった。
「まずいことになったぞ!」
佐々木が唇を噛んで吐き捨てるように言った。携帯電話で引き返すように連絡するゆとりはなかった。轟音は地面を波打たせ、山からゴロゴロと岩が転がり落ちてきた。できることなら無枯村には踏み込みたくなかった。しかし、揺れ動く山の様子に、村に非難したのは正しかったと思えた。
バリバリッ! ゴォー!
木々をなぎ倒す音が次第に鼓膜の傍で響きはじめた。大きな岩が地面に叩きつけられるような耳を劈く鈍い音が大きな振動を伴って聞こえてきた。
「土石流だっ! 佐々木、急げ!」
横山の慌てふためく声に佐々木は動揺するばかりだった。横山の実家がある地域は毎年のように台風や大雨の時期に大きな洪水の被害に遭っていた。それ故、彼の身体は洪水の発生に敏感だった。
「佐々木、急げ! 押し潰されるぞ!」
横山の震える声に佐々木はアクセルを力の限り踏み込んだ。
村へと誘う舗装されてない路面を、滑るように車は突き抜けた。その背後に疾風のごとく大きな水の塊が横切るのが見えた。穏やかなせせらぎを見せていた禊川が、巨大な土石流に飲まれた。行き場を見失った土砂は川を埋め、どんどん集落のほうにも押し寄せてきた。逃げ惑う車が暴れ馬のように上下に跳ねながら凸凹の道を駆け抜けた。
「このままだと村もやられるぞ!」
佐々木が後方に迫る土砂をミラーで確認しながらアクセルを踏み込んだ。
村がやられる! このままだと皆んなやられてしまう! 村から抜け出す道は土砂に潰されてしまった。もう引き返すことはできない。もう後がない! 集落を土砂が襲うのも時間の問題だ! 三方を山で囲まれた無枯村に逃げ道はない! 開かれた海には土砂が怒濤のごとく流れ込むだろう。一体どうすればいいんだ!
そのとき井上は、民宿の主人から聞いた観音様を移したときの話を思い出した。
「そうだ! あの民宿なら土砂に押し流されることはない!」
細い道は集落が見えはじめたところで広い道路へと変わった。佐々木は更にアクセルを踏んだ。集団の最後を走っていた佐々木は先頭の車に向かってスピードを上げた。先頭を走る車を追い抜くと、以前停車させた無枯荘の駐車場を目指して一気に突っ走しった。佐々木の車につづいて後続車が次々に駐車場に集まってきた。三人は車を停めた者から順に無枯荘に逃げ込むように指示して、先に着いた者から順に井上の誘導で無枯荘へと急いだ。駐車場から無枯荘までの短い距離を走るあいだも、土砂が地面を這う音が聞こえていた。井上は明かりの消えた無枯荘のドアを力一杯叩いた。
ドンドンドンッ!
「すみません! 無枯荘さん!」
ドンドンドンッ!
「開けて下さい!」
井上は喉が擦れるほど声を張り上げた。
ドンドンドンッ!
「はい、はい!」
女の声と共に、曇りガラスの店内仄かに明かりを放った。
よし! これで助かるぞ!
「すみません! ドアを開けてください!」
井上は叫んだ。
ドアの鍵をキリキリと回して開ける音がした。そしてギッ、ギィー! と不快な音を立て引き戸が開き、民宿の女が顔を覗かせた。
「どうされました?」
女の表情には驚きが見られたが、それは突然の大勢の訪問者に驚くもので、すぐそこに迫る土石流を警戒するものではなかった。店の入口のざわめきに気づいた無枯荘の主人も姿を見せた。
「洪水です! 川が氾濫したんです! もう、すぐそこまで土石流が迫ってるんです! 助けて下さい!」
井上は兎に角必死に叫びつづけた。女は一行を建物の中へと入れ、全員が無事に非難できたことを確認したところでドアに鍵を掛けた。そのあいだに主人が一行を二階へと案内した。幸いその日無枯荘に宿泊客はいなかった。二階の空いている六部屋は全て綺麗に埋まり、部屋だけでは足らず廊下も使われることになった。誰もが疲労困憊して憔悴しきっていた。身体を立てておくことはできなかったのだ。布団の数が足らなくとも誰も文句は言わなかった。それぞれが各々、部屋と廊下に身体を横たえて土石流が通り過ぎるのを待った。広い二階に全員が手足を伸ばして横になることはできなかった。井上、佐々木、横山の三人は二階を部員たちとその家族に譲って、自分たちは一階の階段の広い踊り場で休ませてもらうことにした。いざというときには階段を駆け登ればそれでよかった。
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