井上たちが民宿に非難してほどなく、集落にも土石流が押し寄せてきた。無枯荘の二階に非難した部員や家族たちの様子を、一階にいた三人が伺い知ることはない。物音一つ立たない静かな二階。恐らく皆就寝したのだろう。集落に流れ込んだ土砂は膝の高さまできていたのではないだろうか。入口の薄い板のドアが激しく音を立てて揺らいでいる。いつ押し潰されるかも知れない。ドアと壁の隙間から水が漏れている。ドアが打ち破られてしまえば一階はアッという間に水浸しになるだろう。表を流れる土砂はドアや壁を激しく打ちつけていく。その音はけたたましくドアをノックしているようにも聞こえた。
階段の下で身を休めていたもののやはり三人には不安だった。そこで危険を回避して階段の中段まで上がって様子を窺うことにした。民宿の主人の話だとこの無枯荘はしっかりした構造故に、度重なる土砂災害からも崩壊することはなかったという。しかし木造二階建の江戸時代中期の建物が、まったくダメージを受けていないはずはなかった。井上にはこの無枯荘の災害の歴史に空手を思い重ねていた。
「まるでローキックだな」
井上がぼそりと呟いた。残りの二人は井上が言わんとすることがわからず首を傾げた。
「何が?」
佐々木が訊ねた。突然この状況に何の脈絡もないことを言われ、佐々木は一瞬土石流の不安から解放された。
「効かないローってなぁ、一発、二発はカットしなくても平気だけど、効かないからといってそれを何発ももらってると次第に足が上がらなくなるだろ」
「ああ、それが?」
佐々木には井上の言いたいことがわからなかった。
「この建物はかれこれ築三百年くらいか? その間に数多くの土砂災害を経験してきた」
「そうだな」
「最近はダムができて災害に見舞われることはないというが、人が住んでなかった時期も長い」
「まあな」
「多分、相当なダメージを溜め込んでると思う」
「確かになぁ…。じゃあ、俺たちこんな入口の傍にいちゃヤバイんじゃない?」
「民宿のおやじがいってただろ。ダムができて土砂災害はなくなったって。だからここに帰ってきたって。つまり民宿をオープンしてからは土砂災害を経験してないってことだろ?」
「そうかもな?」
「でも、おやじとおばさんは土砂を心配してる様子はなかったけどなぁ。奥のあの人らの家のほうは安全なのかもな。ここはどう見てもヤバイよな。安全な場所を貸してもらえるよう交渉してみようか?」
洪水で何度も実家が水浸しになった横山が心配になって言った。
三人は民宿の主人を訪ねて奥へと向かった。昼間だというのに明かりの灯されてない廊下は足元が見えないほど暗い。歩くと不気味に響く板の擦れ合う音がそこに廊下があることを知らせていた。奥に進むとボーッと仄かな明かりを受けた障子戸が見えた。三人は障子越しに声を掛けた。すると人良さそうな優しい女の声で中に入るように促された。横山は障子をそっと開き、一礼して中へ入った。そして残りの二人も一礼して後につづいた。六畳の居間に主人と女はひっそりといた。
井上は主人にどこか安全な場所を貸してほしいと願い出た。しかし生憎安全な場所はもうどこにもないと気の毒そうに言われた。安全な場所は二階だけだった。親から聞いた話だが、一階は土砂に潰されかけたこともあったと主人はまたもや気の毒そうに言った。よくよく聞いてみると、主人と女は二階を明け渡したばかりに、自分たちの身を守る場所を確保することもできず、土砂が通り過ぎるのを祈って待っていたのだという。ただじっとしていられず二人は二階に祀られている観音菩薩に向ってい祈っていたのだと。井上の予想通りだった。
やはりそうだったか。この人たちも土砂災害を経験したことがなかったんだ。
女が茶を淹れて三人の前に差し出した。三人は軽く会釈して礼を返すと、主人がどうしてこの村に今日やってきたのかと訊ねてきた。三人を代表して佐々木が理由を話した。主人も女も驚いた顔で聞いていたが、時折訝しげな表情を見せることもあった。そして一通り話したところで佐々木が主人に訊ねた。
「以前ここに泊まったとき、最初にいわれましたよね? ここにある物は何もうつすなと。あれはどういう意味だったんです? 移動させるなってことですか?」
井上は主人と女の顔を見比べていたが、二人は表情に変化を見せることはなかった。
「私らも深い意味は知らんのですが、ここに昔から伝わっとるただの挨拶です」
首を傾げながら主人は言った。
「挨拶? じゃあ、写真に写すなってことでもない?」
井上は透かさず訊き返した。
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