廊下に明りを灯すことも忘れ、真っ暗闇の廊下を井上たちは駆けた。先頭を行く井上は暗闇のせいで急勾配の階段を一段踏み外してしまい、一瞬落ちそうに揺らいだが後ろの佐々木に腰を掬われて何とか体制を持ち返すことができた。激しく打ち鳴らす物音は一向に止む気配がない。二階の廊下の天井にぶら下がった裸電球の明りが、振動で振り子のように大きく揺らいで奇妙な影を辺りに移している。五人は二階に上がると辺りを見渡した。廊下で休んでいた人たちの姿がない。物音はすぐ近くから聞こえている。
「皆、どこへ行ったんだ!」
井上が声を上げた。どの部屋も観音開きの扉がしっかり閉まっている。それぞれの扉を凝視し、耳を澄ます。すると鋸を引くような音が聞こえてきた。
何だ今度は? 壁を削っているように聞こえなくもない。
「あれ、何の音だ?」
井上が小声で、息を潜めて耳を欹てる四人に訊ねた。
ガリガリガリ!
壁を引っかくような軽い音。五人は壁を引っかくような音がどこからしているのか耳を澄ました。
ガリガリガリ!
音はすぐ傍の、以前井上たちが泊まった部屋から聞こえてくるのがわかった。井上は他の四人をその場に残して、音がした部屋の扉を開き中を覗き見た。
暗いなぁ。
照明が灯されない中に廊下の明りが射し込んだが中まで照らすことはなかった。次の瞬間、真っ暗闇の中でフーッと空中を横切る白い影が見えた。
なんだ!
井上は驚きはしたものの恐怖はなかった。
何かがいる!
井上はすぐ後ろに四人が控えていることで心強かった。片目を瞑って開いた片方の目に絞りを利かせてじっと見ていると、また何かが横切って行った。しかし今度は一つの影ではなかった。数えることはできなかったが、一度に沢山動いたように見えた。井上はそれが部員たちと家族だと気づくと、ホッとため息を吐いた。井上は大きく後ろに体重移動して四人のほうに顔を向けた。
「やっぱ、そこにいんのか?」
横山が小さな声で訊ねてきた。井上は黙って頭を大きく縦に振り、つづいて民宿の主人に懐中電灯を用意するようにと頼んだ。主人は頭を縦に振ると足音を忍ばせて階下に降りていった。
「どうぞ!」
すぐに懐中電灯を幾つか手に提げて主人が返ってきた。井上は主人から懐中電灯を受け取ると、先刻覗き込んだ部屋の扉を軽くノックした。
トントントン!
「失礼ですが、入りますよ!」
大声を発し、井上は扉を押し開いた。次の瞬間、懐中電灯の強い光が暗い部屋に射し込まれた。それを合図に佐々木と横山も部屋の隅々に懐中電灯の光線を注いだ。床の間の辺りに犇めき合うように、部員たちとその家族がいる。いたのは無枯村にきた部員たちと家族の全員ではなかったが、井上にはその光景が不気味に見えてならなかった。
他の連中はどこへ行ったんだろう? それにしても、何やってんだ?
「何してんすかっ!」
佐々木が少し苛立った口調で叫んだ。
「息子が隣の部屋に行こうとしてきかないんです!」
部員の父親の涙交じりの声が返ってきた。その男のほうに佐々木が光を当てた。そのあいだに井上は部屋の中央に垂れ下がった裸電球に手を伸ばし、スイッチを入れた。電球がじわりと点き、部屋を照らした。明るくなった部屋には30人ばかりの塊があった。井上は掛け軸のほうに目を向けた。するとそこには掛かっているはずの掛け軸はなく、壁が爪で無数に引っかかれた跡が、滲んだ血の筋ではっきり見えた。壁に爪を立て、指先から真っ赤な鮮血を垂らす痩せ細った部員たちは樹木に群がる蛾の幼虫のように見えた。
「どうか隣の部屋を開けてもらえませんか!」
家族の者たちが主人に縋り付いた。
「そうはいわれましても村の決まりを破るわけにはいかんのです。隣は観音様を祀っとりまして、50年に一度しか開けれんのですよ! どうぞ堪えて下さい」
主人は執拗に詰め寄る家族たちに土下座して断った。井上は土下座までした主人の狼狽ぶりに、今回の祟り騒動と開かずの間が深い関わりがあると確信した。しかし、お祓いの儀式を済ませた今は、それ以上村の言い伝えについて詮索しようとは思わなかった。
ここのご主人が村のしきたりを破るようなことは絶対にしないよ。だって、村のしきたりを守らなかったから、ここにいる連中はミイラのようになっちまったんだもん。現実に祟りにあった連中を目の当りにしてビビってるのに、この上、村のしきたりを破るようなことが絶対にできるわけない!
家族の者たちと民宿の主人との話は平行線を保ったままだった。そんな中、横山が口を挟んだ。
「他の皆さんはどちらへ?」
横山が気になっていたことを訊ねた。
「向こうの角部屋に行かれました」
その部屋は以前宿泊したとき四年生の男子が泊まった部屋だった。
「じゃあ、向こうからも隣の部屋に入ろうと壁を削ってるんだな」
井上が呟いた。
「はい」
「さっきのドンドン激しく打ち鳴らす音は?」
井上が訊ねた。
「隣の部屋のドアを打ち破ろうとしたんです。しかし、板が頑丈に打ちつけられていて無理でした。それで隣部屋の壁を削ろうとしたんです。民宿の方には勝手なことをして申し訳ないと思います。後で必ず弁償いたしますのでどうか許して下さい」
「そうはいわれましても、隣の部屋は絶対に開けたらいかんのです!」
民宿の主人も必死に抵抗した。井上とは逆に調子者の横山は主人が拒みつづける様子に苛立ちを感じていた。
どうして開けてやらないんだ! 少しぐらい村の決まりを破ったっていいじゃないか! 家族の方々もこんなにお願いしてるんだ。皆が奇怪しくなったのも、すべてはこの村のせいだろ! 責任取ったっていいんじゃねぇか!
横山には床を這う部員たちが哀れに思えてならなかった。
皆こんなになるまでよく生きていられたよなぁ。
ミイラのような部員たちは必死に壁に裂けた指先を突き立てている。指先からたらたらと血が滴り落ちている。痛みを感じないのか、傷も気にせず壁に向かい合うその姿は、迫害を受けながらも神に祈りを捧げつづけた、かつて宗教弾圧を受けて散っていた者たちを横山に連想させた。
「向こうの部屋も見てきたけど、同じように壁をほじくってたよ」
佐々木が言った。
井上は思った。
部員たちのお目当てはただ単に観音様なんだよなぁ…。
「お願いします! どうか息子の思うようにやらせてもらえないでしょうか!」
「お願いします!」
家族の者たちは必死に主人に頼んだが、主人は断固として耳を貸さなかった。するとイベント好きの横山がまた話をややこしくするようなことを言いはじめた。
「どうして開けられないんです! 皆、こんなにお願いしてるんですよ! 村のしきたりだか何だか知りませんが、連中がこうなったのも許はといえば、この村のせいじゃありませんか!」
横山が半分怒ったように感情を露に大きな声を立てた。彼の叫びは部員たちの家族全員が思っていることだった。
「仕方ないですね…。いっときますが、どうなっても知りませんよ。最初に断っておきますが、絶対に怒らさんようにして下さいよ!」
渋々ながら隣の部屋を開けることを承諾した主人は、どこか怯えているように見えた。
何に怯えてるんだ?
井上には主人の不可解な言動が気になった。
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