絶対に怒らさん? 怒らせてはいけないのは誰のことだ? 民宿のおやじのことか? それとも村の住人? でも住人は普段はここにはいないはずだ。ということはこの村に棲み憑いている亡霊? でも亡霊のことは主人は知らなかったはずだ。怒らしてはならない物って何だよ? まさか隣に祀ってる観音様じゃねえだろうなぁ! 迷信か? それともただ単に信心深いだけなのか?
井上には女が主人を怪訝に見つめていたのも疑問だった。
奥さんは何も知らないんだ。ということはこの観音様は奥さんにもいえないような物なんじゃあ。知られてはまずい秘密があるんだ。きっと。
井上が勝手な憶測を働かせているあいだに、いつの間にか佐々木と横山、それに体力の回復した家族の者が主人が用意した工具で打ちつけられた板の取り外し作業に掛かっていた。作業をする音の中に、微かに土砂が集落に浸透している音が確認された。民宿の主人は女に視線を送っていたが、女は気拙く思ったのか視線を逸らした。それを見ていた井上には観音像が皆んなが期待するような有り難い物ではないように思えた。主人の目から水滴が零れているのが見えた。
なんで泣いてんだよ? 開ければ嫌なことが起こるとでもいうのかよ?
井上は隣の部屋に安置された物の正体を主人に訊ねてみることにした。井上は主人に近寄り、他の誰にも聞こえないように耳元で囁いた。
「あそこに祀ってあるのって、本当は観音様じゃないんですよね?」
「ええっ!」
主人の驚きが観音様ではないことを容易に教えてくれた。
「何を祀ってるんです? さっき奇妙に思ったんです。絶対に怒らさないようにって、あれどういうことです? 聞いてると、まるでそれが生きてるかのように取れましたよ。何か生き物でも飼ってんですか?」
井上は尚も執拗に答えを求めた。薄暗い中でも主人の顔から血が引いていくのがはっきりわかった。主人は目をキョロキョロさせて落ちつきなく、歯をがたがた鳴らせて震えている。
「そんなに震えてどうしたんです? そんなに恐ろしい物なんですか?」
井上は狼狽するだけで何も応えない主人に苛立ちを覚えて強い口調で迫った。しかし、井上の苛立ちに必至に応えようとしている主人がそこにいるのも事実だった。主人は井上に何かを伝えようとしていた。だが、無意識に起こった震えによって言葉が声にならないでいた。
「どうしたんです!」
井上は主人の安否が気になった。女が主人の肩に手を沿えて床に腰を下ろさせた。主人の息づかいが次第に荒くなり、呼吸が乱れはじめた。主人の視線は扉に打ちつけた板を取り外す佐々木たちのほうに向けられたまま、決して逸らされることはなかった。女が始終主人の手を取って摩っている。
なんでそんなに怯えてるんだ? ちゃんと話てくれなきゃ、俺までビビっちまうだろっ!
井上は心の中で零した。すると今度は突然お経のようなものをぶつぶつ唱えはじめた。その姿に女も相当驚いたのか、主人の背中に手を回してしっかりするようにと何度も摩りながら耳元で声を掛けた。女はかなり動揺しているように見えた。そんな女に井上は訊ねてた。
「奥さんはあの部屋の観音様はご覧になられたことはないんですよねぇ?」
「ええ」
女の声は掠れていた。
「観音様について何かご主人から聞いたことは?」
「いえ何もないんです。なんで主人はこんなに震えとんやろ? しきたりを破ったことで祟りに遇うんを恐れとんでしょうか?」
女は首を傾げながらも主人の身体を摩りつづけていた。主人の唱えるお経が次第に大きくなっていったが、扉を開ける作業の音に掻き消されて、その声が他の誰かに聞かれることはなかった。主人は視線を作業に夢中の者たちに向けたまま、震えながらお経を唱えつづけた。そして急に我に返ったかと思うと、突然唱えるのを止めた。
「わしゃ、この後どうなるんか思たら、怖ぁて堪らんのじゃ!」
主人が目を大きく見開いて震える声を漏らした。
「ええっ? 何です?」
井上は訊き返した。
「お客さん、ええからあんたは早よお逃げ! 村の決まりを破った者は、えらい目に遇うで! あんたはこれから起こることを見たらいかん! 必ず不幸になる。絶対にもうまともにはなれんせん! なんも見んうちに早よお逃げな!」
主人の訴え掛ける姿に、井上は全身を鳥肌立てた。
「に、逃げるといっても、外は土石流で身動き取れませんよ!」
井上は心に湧き起こった不気味な影を消し去るように声を荒立てた。
「土砂のほうがまだましじゃ! あんたはこの村の者じゃない! なんも知らんでええんじゃ! 今逃げたら、もしかしたらあんただけは助かるかもしれん! ほやけん、早よお逃げなさいというとんです!」
主人の表情には鬼気迫るものがあった。
「他の連中も皆この村の人間じゃない! 奇怪しいじゃありませんか! どうして助かるのが俺一人なんです?」
井上には主人の言っている意味がよくわからなかった。
「あんた以外の人はもうあの部屋に手ぇ掛けてしもた! もう誰も助からん! あの部屋を開けられるんは、許しを得た者だけじゃ! 外の者が開けたら怒りに遇うて、皆まともに生きておれんようになる! 今はもうあの部屋を開けることが許された者はおらんのじゃ! 皆流されてしもた! 昔、この村を最後に襲った土砂崩れで、皆死んでしもたんじゃ!」
主人は気が狂ったかのように叫んだ。次の瞬間、井上は身体から気力がフゥッと消えていくのがわかった。
「あんたはなんも見んうちに、なんも知らんうちに早よお逃げなさい!」
主人は尚も執拗に逃げるように言った。
「あそこには何があるんです!」
井上は頭を締めつける痛みに気がどうにかなりそうになった。
「あそこには観音さんなんぞおりゃせんのよ! あそこにおるんはの、ありゃ憑坐じゃ!」
主人の声から急に強い威圧感が消えた。そして再び涙をぼろぼろ零しはじめた。扉を開ける連中の一丸となった姿が勇ましく思えた。皆んな部員たちの苦しみを解こうと必死になっている。互いに掛け声を掛け合いながら、打ちつけられた板を1枚1枚丁寧に取り外そうとしている姿が井上には哀れに思えた。
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