次々と座っていくに連れ、佐々木の視界が少しずつ拓かれて部屋の奥が見えるようになっていった。不思議なことに誰も無理な姿勢で腰を下ろしている者はいない。佐々木はそのとき部屋が腰を下ろす人たちの動きに合わせて、ゆっくりと縦横に伸びているような錯覚に見舞われた。
何だ今のは! 目の錯覚? 部屋の壁が後退していくように見えたけど。
一人二人と目の前に立ちはだかる人壁が腰を下ろしていくに連れ、佐々木と横山の視線にある物が見えてきはじめた。しかしそれは二人が期待していた物ではなかった。二人の目が捕らえた物は、明らかに観音像ではなかった。二人は茫然と立ち竦んで、口を開けたまま閉じることを忘れていた。
な、何なんだ、これっ! こ、これが観音様なのかっ!
「こ、これって、どう見ても観音様じゃないよなぁ?」
佐々木は横山にその物体を指さして訊ねた。物体に向けられた指先が震えていた。横山は生唾をごくりと飲み込んで頷いた。
「この村の人間はこれを観音様だと信じて守ってたのか!」
佐々木の声は驚きと落胆で一層震えていた。
「ご、50年に一度しか姿を見せないって話だからなぁ。実際に見たヤツも少ないんだろうな」
横山の声も震えていた。
「し、知らない人間がほとんどだ」
「皆、観音様があるもんだと信じ込んでたんだろうな」
「この家に移したときに観音像は壊れたのかなぁ? なあ、どう思う?」
佐々木が吐息を震わせて訊ねた。
「土砂で流されたんだ。それで代りを用意したんだ」
二人がその部屋で見た物は若い木で組み立てられた、子供の背丈ほどの人形だった。人形には顔はあるものの、そこには目、鼻、口といった表情を映し出すものはなかった。そのことが男女の性別を断定させないでいるようにも思えた。表情のない人形には子供用の着物が着せられていた。不気味なほど黒々とした乾燥してばさばさの髪の毛が頭に被さっていた。恐らく鬘だろうが、まるで直に生えているように見えた。童のような雑な作りの人形は、入口を向いて両足を前に投げ出して座布団に座り、足首のあたりに縄が括りつけられていた。人形に結んだ縄の先は窓に張りつけた鉄格子にしっかり結ばれていた。部員たちはその人形に縋り寄って手を合わせて何やら話し掛けていた。家族の者たちは哀れな我が子をじっと見守っている。佐々木と横山はその異様な光景から早く解放されたい気持ちだった。
「何を話し掛けてんだろ?」
横山が佐々木の耳元で小声で言った。
「さあ? あいつら涙を流してるぞ」
二人は事の成り行きを見ていた。次第に複数の人の声が聞こえはじめた。そしてそれは誰かに救いを求めているように聞こえてきた。
「子供らを向こう岸へどうぞ渡してやって下さい」
「この人らに、わしらの代わりに、子供らを向こう岸に移してもらおう思たのに、身削ぎに遇うて連れて行ってはもらえんようになってしもた」
「苦しみながら流された子供らを、向こう岸に連れて行ってもらいたかったのにのぉ」
「まさか戻ってくるとは思わんなんだ」
「後もうちょっとで向こう岸に渡れたというのに」
「やっと見つけた乗物を身削ぎするとはのぉ」
部員たちの口から次々に言葉が漏れた。静かに見守る佐々木と横山には彼らが何について語っているのかまったくわからなかった。佐々木は民宿の主人に訊ねた。これはどういうことなのかと。
「恐らく昔土砂で子供を亡くした親の霊が、お連れさんらの身体に乗り移って憑坐に救いを求めよんじゃろ」
「ヨリマシ? ヨリマシって何です?」
聞き慣れない言葉に首を傾げ、佐々木が訊き返した。
「憑坐はあの人形じゃ」
「あれ、ですか。ここにあるのは観音様じゃなかったんですね…」
横山が割り込んだ。
「昔はあった。じゃが流されてしもた」
「それで代わりにあれを」
「わしもようは知りません。観音さんが流された後、この家にあの人形が祀られるようになったそうです」
「新しく観音像を祀らなかったのは何故です?」
「土砂崩れが治まった後、生き残った者は観音さんが向こう岸まで土砂で流された者を連れて行って下さったいうて、悲しみに眩れる者らを慰めたそうです。けど子供を流された親の悲しみは、それでも治まらなんだ。それはそれは死ぬまで悲しんだそうです。それで親の悲しみを癒すために、子供の人形を代わりに祀るようになったんじゃそうです。昔は洪水のとき、船に乗り遅れた者は流されんように、子供らの足を頑丈な縄で縛って家の柱にしっかりと縛りつけとったんです。じゃが土砂の勢いに負けて流された子らも大勢おったらしいですわい。子供は流されても、結び付けとった縄はしっかりと柱に残っとったそうです。結び付けた足首から先を残して」
「じゃ、じゃあ縄で縛ったところから千切れて?」
佐々木が顔を引きつらせて震える声を漏らした。
「ええ。子供らの小まい足ですけん、土砂の押し流す勢いに耐えられなんだんでしょうなぁ。身体は流され、残ったんは足だけやったそうです」
「以前、ここに泊まったとき部員たちが見た足のお化けは、流されずに残った子供たちの足だったのか」
横山が呟いた。
「さあ、それはわかりませんが」
主人が目を逸らせて言った。
「連中があの人形に、向こう岸に代わりに連れて行ってもらいたかったっていってましたけど、あれは?」
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