そう言ってヌッと立ち上がった男は、見るからにがっちりした体格で、格闘技の経験者に見えた。そしてどことなく誰かに似ているような気がした。男は二人の前に倒れ込んだ人込みを掻き分けて現われ、慣れた様子でファイティングポーズを取った。
コイツ、誰の親だ?
佐々木はふと考えた。
「あんた経験者か?」
アドレナリンを体内に充分満たした横山が横柄な口調で訊ねた。
「息子に教えたのも私なんでね」
男は不敵な笑みを浮かべて応えた。
「息子? 息子って誰だよ!」
眉を顰めて横山が訊き返した。
「サークルでは主将を勤めてると」
男はじわじわと近づいてきた。男の言葉に二人は一瞬ぞっとした。
ヤバイッ! コイツ、大沢のおやじだ!
二人は大沢から、父親はかつて10年間全国大会でベストエイトに必ず残る常連選手だったという話を聞いたことがあった。更に大沢の父親は刑事で、日々身体の鍛練を怠ることはなく、その刃金のように鍛え上げられた肉体を楯に、凶悪犯に立ち向かい何度も危険な目に遇いながらも、その鍛え抜かれた反射神経で大怪我に見舞われることはなかったと誇らしげに語る大沢を思い出した。
「ヤバイぞっ!」
横山が佐々木に小さく囁いた。勝ち目がないことに気づいた佐々木は、横山に目で合図して大沢の父親に捕まる前に部屋からなんとか逃げ出そうとした。だが先程まで畳の上で腹這いにうずくまっていた家族たちが、仁王立ちで部屋の出口を塞いでいるのに気づいた。
「畜生ぉっ!」
横山は怒りに我を忘れ、出口を塞いだ家族に殴り掛かっていった。だが、冷静さを欠き、思うような体制を整えることのできなかった横山は、右ストレートを繰り出す前に数人の男に抑え込まれてその場に頭からひっくり返ってしまった。倒れながらも横山は蹴り足をでたらめに放ちつづけた。横山は必死にもがいた。だが立ち技にしか精通していない横山が、倒れ込んだ状態でいつもの動きが取れるはずもなかった。横山は敢えなく取り抑えられ、ボディーに数発のパンチを貰ってへたってしまった。家族の中に苦しみもがく横山を気遣おうとする者は一人もいなかった。
「クッソーッ! 俺はこのまま殺られてしまうのかよぉっ!」
横山の悲痛な叫びが部屋の中で何度も反響した。佐々木は横山が抑え込まれているあいだ、大沢の父親と間合いを保っていた。
何やってんだよ、横山の野郎っ! 俺一人で大沢のおやじを相手にできるわけねぇだろっ!
大沢の父親は不適な笑みを浮かべて、既にロングの間合いにまで入ってきていた。
殺られる! このままだと確実に殺られる! どうすればいいんだ! 俺が今から一戦交えようとしているこのおやじは、空手の試合だけでなく刑事という仕事柄、実戦を数多く積んできているんだぞ! 当然ながら逮捕術も身に染み付けてる野郎が、俺を取り抑えるのは容易なことだ。このままでいいのか! 後1センチ近寄ればミドルの間合いだ。ミドルの間合いなら、腕を伸ばせば充分に俺の身体に触れることができんだぞ! どうする! 早くしろ! 早くこの状況から逃げる方法を見つけるんだ!
佐々木は大沢の父親と間合いを保ちながら擦り足で後退した。一瞬たりとも視線を逸らすことはできない。目を逸らした瞬間に、一気に間を詰めてなぎ倒されるだろう。いつまでも睨めっこのままで済まされるわけがない。
痺れを切らした大沢の父親が何か仕掛けてきたとき、追い詰められた精神状態で俺はすぐさまそれに反応することができるのか? 相手はベスエイトに一〇年間常連だった男なんだぞ! 恐らく俺の心はとっくに読まれているはずだ。早くなんとかしろ! 生き延びる方法を考えるんだ!
佐々木は背後を警戒しながら後退りした。
横山。そうだ横山だ! 何も俺が生贄にならなくてもいいんだよ! 俺じゃなくたっていいんだよな! そうだよ、連中が、いや、この不気味な人形が求めているのは、たった一人の生身の身体なんだ。多分、横山を抑え付けてる連中は、俺のことなんか見えてないだろう。横山という獲物を捕獲したんだからな! 俺が素直に横山を差し出せば、そうすりゃ俺は助かるんだ! そうすれば無闇に大沢のおやじと闘わなくても済むんだよ。でも、俺が考えていることって本当にそれでいいのか? それは許されることなのか? 良心の呵責? おいおい、この状況で何いってんだよ! そんなことに心を引き止められてたら、俺が生贄にされちまうぞ! 何を躊躇ってんだ!
空手の試合だってそうじゃねぇか! 試合のルールを最大限に利用して不利にならないように活かして勝ち残るのが真の勝者だろ! 勝つためには手段を選ばない。一本勝ちだろうが、判定勝ちだろうが勝ちゃあいいんだよ。潔さなんて勝負の世界では幻想でしかないんだ! 生き残るために、姑息な手段を取ることが悪いと誰が決めた? この際そんなことは考えなくていいんだよ! 大体、この村の子供たちの亡霊に期待を持たせたのは横山じゃねぇか。コイツが温泉であんな約束さえしなければ、こんなことにならなくて済んだんだよ。子供たちを松山に連れてく約束したのは横山なんだからな。自業自得だよ! あのとき俺は子供たちとは約束なんてしてねぇんだ! やったのは横山一人だった。子供たちを向こう岸に連れてく約束をしたのは横山なんだよ!
すべての問題を引き起こしたのは横山じゃねぇか! 向井の挑発に乗って写真を撮ろうといったのも横山。コイツが短絡的に勝手な行動をしたことからすべてがはじまったんだ。素を糺せばこの村に合宿先を決めさせたのも横山だった。コイツは井上が慎重に部員たちに意見を伺っていたときも、さっさと決めてしまえといって道場から一人出ていったじゃねぇか! 横山のせいであのとき加藤も最後まで友人の話をすることができなかったんだ。俺たちをここまで苦しめたのはこの横山の短絡さ、それのせいなんだよ! だから俺が横山を生贄に差し出すことに、良心の呵責を覚えることなんて何一ねぇんだよっ!
横山は空手の稽古だっていい加減だったじゃねぇか。完全にファッション感覚で取り入れてたよ。稽古は無断で休むことも多かったし、部の仕事はすべて後輩に押しつけて自分では何もやろうとしなかった。いつも調子のいいことばかりいって、厄介な仕事を俺たちに回してきた。畜生! コイツが、コイツが俺たちをこんな状況に陥れたんだっ!
佐々木は横山の今までの愚行の数々を、腸が煮え繰り返す想いで思い返していた。
畜生っ! 絶対に許さねぇ! コイツは責任を取る義務があるんだよ!
コメント