私が主催する怪談のイベントに何度も遊びにきてくれているT君という二十代の男性が、怖い体験を聞かせてくれるというので、喫茶店で会うことになった。
彼はその日、ホラー映画を観に、都内の繁華街を訪れていた。大きなゴジラのオブジェクトを正面に見ながら、長いエスカレーターに乗る。
ちょうどそのとき、スマートフォンが振動し、映画の開始時間の通知が来たので、席の空き状況を確認した。結果は満席だった。
この日は映画の封切りであり、さらに街中にはコロナ禍が明けたような解放感が漂っていた。満席になっているのも納得だった。
指定席ながら、彼は早めに入場し、定番のポップコーンとコーラのLを売店で購入。そして、まだ明るいシアタールームに入っていった。
席はスクリーン中央寄り、前からもちょうど良い場所だった。
この位置なら映像を見上げる形にならず、首もダルくならない。我ながら良い席を取ったと喜んでいたところ、彼の右隣にふたりの女性が腰を下ろした。
何気なく視線を移すと、どちらも自分と同じ歳くらいで、夏らしく白を基調とした爽やかな服装をしていた。
特に何も考えることなく、そのふたりから目を逸らし、興味深い記事があるかもしれないと思い、膝の上に置いてあるパンフレットを手に取った。
上映が始まるまでの間、ホラー映画の事前情報を読むことにした。
しかし、隣のふたりがうるさくてそれどころではなくなってしまった。
彼女たちはとにかく声が大きかった。
「ねぇ、やっぱり怖い映画なんてやめにしない?」
「お姉ちゃんは怖がりだよね。最初に観たいっていったのはお姉ちゃんでしょ?」
「そうだけどさ……」
「大丈夫だよ。ワンちゃんだっているじゃない」
「そうだけどさぁ」
――ワンちゃん?
このふたりは一体何を話しているんだろうと、思わず耳を傾けた。ふたりの会話もそうだが、顔立ちや仕草が似ている。これはきっと姉妹に違いないと思った。
犬、連れてきたんですか? と思わず聞こうとした。
――ブーッ!
そのとき、上映開始の合図のブザーが鳴り響き、場内が暗くなった。彼は、その姉妹に質問を投げかけるチャンスを逸してしまった。
本編に先立って、他の映画の予告が流れ始めた。
「今もいるでしょ?」
その間も、妹の方が姉をなだめている声が聞こえる。
その瞬間、フッと獣っぽい匂いが漂ってきた。
映画館は、コロナ禍が明けたとはいえ、空気の入れ替えを断続的に行っている。
犬の臭いくらいなら匂わないはずなのに、どうしてこんなにはっきりとした匂いがするんだろうと、彼は首を傾げた。
本編が始まった。
そのホラー映画は洋画だった。邦画に比べ、大きな音や魔物の突然の登場で観客を脅かすスタイルだ。
T君はホラー好きだったので、そうした脅かしてくるタイミングというのがなんとなくわかっていた。
(あぁ、次のシーンで何かあるな)
案の定、スクリーンに化け物が現れると同時に、姉妹が悲鳴を上げた。
その瞬間、突然、彼の足の上を何か冷たくて毛むくじゃらなものが速やかに通り過ぎた。
同時に、彼の鼻孔を強烈な獣臭が突いた。
彼はすでに映画どころではなく、その何かに怯えていた。
そんなことが上映中、何度も繰り返された。
T君はそのせいで、まったく映画に集中できなくなってしまっていた。
代わりに、コーラを必要以上に飲み過ぎてしまい、猛烈にトイレへ行きたくなった。
映画はもう終盤にきていて、ここで席を立つわけにはいかないと我慢したものの、それは無駄な抵抗に終わった。
漏らして恥をかくよりも、もう一度お金を出して観直すことを選んだ彼は、一目散にトイレへ急いだ。
「えっ?」
用を足すとき、下を向いた彼は驚きの声を上げた。
それは、自分の両脛が何か動物の毛で覆われているようだったからだ。
赤が混じった茶色というか、明るめの茶色というか……。
今戻れば、ラストのシーンくらいは目にできると踏んでいたが、怖くて戻れなくなってしまった。
このまま帰ってしまおうと考えた。
映画館にいるだけで胸がつまるような恐怖を感じていたからだ。
しかし、ふと短パンのポケットに手を動かすと、上映直前まで持っていたスマートフォンが無くなっていることに気がついた。
恐らく座席の下に落としてしまったのだ。
上映がひと通り終わるのを待って、自席に戻る。
明るくなった場内にはもう客はおらず、彼はひとりきりだった。
自分が座っていた席に近づくと、床にスマートフォンが落ちていた。
さらに近寄った彼の視界に入ったのは、隣の女性ふたりが座っていた座席。
そこには、どちらもびっしりと動物の毛だらけだった。
違った形で怖い想いをした彼は、映画も見損ねて残念な気持ちになった。
そこで、気分転換に近くのイタリア料理店に入ることにした。
店員に通された席のすぐ隣に、例の姉妹が食事をしていた。
やはり、ふたりとも声が大きく、聞き耳を立てる必要もなく、自然と会話が聞こえてきた。
「でもなんか怖かったけどワンちゃんいたから怖くなかったよ」
「実家から連れてきて良かったよね」
そんな話の中、姉のスマートフォンに着信があった。
会話の内容から、どうやら彼女たちの父親らしいということまではわかった。
そしてその訛りから、彼は四国出身ではないかと推測した。
その瞬間、彼は慌てて席を立つと、注文もせずに店を飛び出した。
「いえね、怪談好きなら『四国といえば狗神』とすぐ頭に浮かびますよ。あの姉妹は、狗神を連れ歩いているってことだと戦慄しました。狗神というのは本来、家に憑くものです。そんな存在を連れ歩くあの姉妹、いったい何者だったんでしょう?」
彼は空調の効いた喫茶店で身震いをすると、目の前のコーヒーを口に運んだ。
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