我が家に仔猫が居候するようになって二週間が過ぎた。
家の中は仔猫とキャットフード、それに加えて糞の匂いが強烈に鼻を衝く。更にはその匂いを消そうと、防臭スプレーが朝から晩までひっきりなしに振り撒かれる有り様だ。
ソイツがやってきたお陰で、私は防臭スプレーの脳を犯しそうな厭な匂いにも悩まされるようになっていた。
「しかし、この匂いは堪らんなー。どうにかならんのか」
日に何度となく私はこんな小言を口にするようにもなった。防臭スプレーの匂いが身体にこびりついているのが自分でもわかる。自分ですらわかるのだから、他の者なら尚更その匂いは堪らないだろう。
外出したときなどすれ違い様に、顔を顰めて過ぎ去る者もいる。先日もそうだった。仕事仲間たちと休憩中に談笑しているときのこと。私の隣りにいた男が、
「おい、何か匂わないか?」
と、突然顔を顰めた。
私たちは鼻をクンクンさせて、辺りの匂いを嗅いだ。
しかし、これといった変な匂いは感じない。私は何も匂わなかったので、その場に黙っていた。すると別の男が、
「確かに匂う! この匂いは」
と、いってから、またクンクン鼻をさせて匂いを嗅ぎはじめ、遂に大声で、
「猫の匂いだ!」
と、悲鳴を上げた。
男が猫と叫んだ途端、その場にいた者たちの顔から一斉に血の気が退き、身をかがめて慎重に辺りを見渡しはじめた。生憎その場にいた連中は、揃いも揃って大の猫嫌いだった。
「近くにいるんじゃないか?」
「いや、近くに気配は感じられない」
「じゃあ、この匂いは一体どこから」
目を瞑りクンクン鼻をさせながら、一同が匂いの発生源を探り出そうと嗅覚に神経を集中させた。そして、じわりじわりとその匂いの元に歩み寄っていった。
いつの間にか私は彼らに取り囲まれていた。
皆んなまだ目を瞑って鼻だけをヒクヒクさせている。そして、「ここだ!」と誰かが叫んで、一斉に血走った目を開いた。
その時の私は惨めでならなかった。
自分に猫の匂いが染み付いていることに全然気づかなかったからだ。防臭スプレーを身体に振り付けていたので、ソイツの匂いは消されているものだと思っていた。安易に考えていた私が馬鹿だった。私は自分のこの浅墓さを心底怨んだ。
「ええ! おまえ、家で猫飼ってんのぉ! 俺、ほんとにダメなんだよね。ソイツの匂いを嗅ぐだけで吐き気を催すんだ」
「申し訳ない」
「俺たちがダメなの知ってて、わざと匂いつけてきたんじゃないのか? 信じられないね」
「すまん。そんなつもりはなかったんだ。今度からもっとちゃんと気をつけるよ」
「猫飼ってんならもうお邪魔できないな」
「いや、猫といってもまだ仔猫なんだ。噛み付いたり、引っ掻いたりはしない。ちゃんと厳しく躾されてるから。皆んなが心配するようなことはないよ。だから、そんなこといわず、いつでもきてくれよ」
「いや、やめとくよ」
「そんなこといわないでくれ」
「生理的に皆んなダメなんだ。おまえだってそうじゃなかったっけ? なのによく平気でいられるよな」
楽しい時間のはずが、最悪のものになってしまった。
あの日以来、皆んなは私を意識的に遠ざけるようになった。私はたった猫一匹のお陰で、友人を失う破目になってしまったのだ。
体毛の一本一本にまで猫の匂いが染み付いている。それはあたかも体毛の一本一本に銀蝿の卵を括り付けているかのようだ。自分の体臭に混ざって、猫の匂いを嗅ぎ取ったときなど、全身を孵化したばかりの蛆が這い廻っているように思えて、自分の身体にもかかわらず切り刻んで捨ててしまいたい衝動に駆られる。
私は不意に狂気に理性を失いそうになる自分に恐怖を抱いた。今はまだ正気を取り戻すのも簡単だ。しかし、日を追うごとに私は私自身のこの猫の匂いが染み付いた肉体に嫌悪感を募らせている。自分でこの狂った衝動を振り払うことができるのも、そう長くは保たないと思われた。
私は救いを求めて妻に縋り付いた。
「アレが死ぬまでこの匂いは我慢しなければならないのか」
「仕方ないわよ」
なんともやりきれない私の嘆きに、妻の言葉が追い討ちをかけた。
「仕方ない、か……。
そうだよな。アレがここにいる以上は仕方ないんだよな」
私は肩を落とし、うなだれたまま仔猫を見やった。
ソイツをこの家から追い払えば私はもう苦しまなくてすむ。簡単なことだった。しかしそんな簡単なことですらもうできないくらい、私は精神的に追いつめられていた。
私は生きる屍として、この先猫が死に絶えるまで我慢して生きなければならないのだ。そんな私とは対照的にアイツときたら、大分我が家にも慣れたらしく自由気ままに部屋の中を駆けずり回っていた。
「まったく気楽でいいものだ。私がこんなに苦しんでいるというのに」
ソイツを眺めているとき、不意に何処からともなく殺意が顔を覗かせてくる。しかし、その殺意の矛先はソイツにではなく、常に私自身に向けられていた。
「気楽って?」
妻が不思議な顔で訊ねてきた。
「いや、アイツは食い物は自分で手に入れなくてすむだろ。餌はいつも用意されてるんだ。だが私たちはそうじゃない。誰かが用意してくれることはないだろ。食うためには必死に働かなくてはならない。家族を飢え死にさせないために、社会の中で必死に戦わなければならないじゃないか」
「そうね」
「アイツは何もしなくていいんだよ。気ままでいい身分だ。犬と違い、自分のしたいように散歩も自由だ。まったく羨ましい身分だよ」
私は私自らが自分に向けた殺意を追い払うかのように愚痴った。
生きるために、家族を養うために毎日懸命に駆けずり回る私たちとは対照的に、何一つ苦労なしに食事にありつける猫が憎たらしい。しかしそんな風に妻の手前仔猫を蔑んでみたものの、殺意は一向にソイツには向いてはくれなかった。
私には勇気がなかった。ソイツを追い払う勇気もなく、殺害する勇気は尚のことない。それどころか認めたくはないものの、仔猫のような気楽で自由な生き方を望んでいる。
「猫はいいわよね」
妻がぼそりとため息と一緒に呟いた。
「君がもし猫だったらどうなんだろうな」
「どうって?」
妻も猫の生活に羨望を抱いていたのだろう。返ってきた言葉に躊躇いがあった。私はそんな彼女に絶対にありえない空想を描いてみた。
「私は猫が嫌いだ。もし君が猫だったら、やはり君には近づかないだろうな。いくら君だったとしても、猫だもんな」
私は彼女を見ないで、仔猫に視線を落としていた。
「私が猫なら、私はあなたに近寄っていくでしょうね。どんなにあなたに嫌がられても。それでも最後まで執拗にあなたを追い回すだろうな」
「最後まで?」
私は妻の言葉の意味を考えた。
「最後までって、私の猫嫌いがなくなるときまでってことかい?」
「そんなのいつになるかわからないじゃない。頑固なあなたから猫嫌いがなくなるなんて、それはこの先永遠に待っても絶対にないわ」
妻の優しい囁きは私を納得させるものだった。
「そうだな。私の猫嫌いが治るわけないよな」
妻は私に微笑みかけた。猫になった妻は私をオモチャにして弄び、恐怖で狂っていく様子を楽しみながら、最期は喉元にその鋭い牙を突き刺すのだろう。私の抵抗は彼女には届かないのだ。
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