妻が私と娘を捨てて三日が過ぎた。
「パパ。ママは? ママはどこ?」
もう三日も何も食べていない娘の弱々しい声が、微かに届いた。
「ママはどうしたの?」
飢えと疲労で娘は泣くこともしなくなった。
「ママはね、お仕事なんだ。少し遠くまで行ったみたいだから帰りが遅くなってるんだよ。心配しなくていいんだよ。すぐそこまで帰ってるんだから」
思いつくままに嘘を吐いた。
私の話に娘の顔がにわかに緩む。私はそんな娘の顔を見るのがとてつもなく苦しく、辛い。妻はもうここには帰ってこないだろう。私たち親子は彼女に捨てられたのだ。娘はもうすぐ母親が帰ってくると信じているが、私は娘をなだめる言葉をこれまで何度いったのか憶えていない。何も知らない娘は明日もまた訊ねてくるのだろう。
「パパ、ママは? ママはどこ? ママはどうしたの?」
明日、娘にそう訊ねられたら私はどう応えてやればいいのだろう。意識がままならない私の脳は答えを導くことを諦めたのか、それとも娘を見捨てようとしているのか、私に真っ白な映像を見せるだけだった。
一匹の猫が私たち家族からささやかな幸せを奪い取っていった。なぜだろう。よりにもよって私たち家族でなくてもよかったのではないか。猫を買ってきた日、娘はかわいいといった。今でもそう思っているのだろうか。恐らく三歳の小さな脳でも、家族が崩壊していった原因が何だったのか気づいているはずだ。
娘は猫が爪を砥ぐようになって、次第に目を背けるようになった。代わりに日を追うごとに衰退していく私を労って近づくようになった。娘は私の傍から離れようとはしなかった。しかし、妻は私から離れてしまった。幼い娘を私に残して。
彼女はわかっていたはずだ。もういつ死んでもおかしくない身体の私には、娘を育ててあげられないということを。なのに、彼女は娘を私に残して一人で姿を晦ましてしまった。
私が愛していた妻。
彼女は母性愛に満ち溢れた女性だと思っていた。ずっとそう信じて一緒に暮らしてきたのに。しかし、それは私の勝手な思い込みで、ただの幻想でしかなかったのだ。そう気づくのに私は時間をかけすぎたのではないか。寝たきりの私だけを捨てていくならまだしも、お腹を傷めて生んだ子をも捨てて逃げてしまったのだから。
もう、よそう。
彼女は帰ってこないのだから。
いくら彼女への想いを憎しみに変えたところで、現実に疲れた彼女が汚物の匂い漂う我が家の扉を開くことはないのだから。
私の両目からは涙はもう出なかった。悲しみは消え、何処から涌いてきたのか全身の至るところを蛆が這い回り、それに応えるようにじわじわと、この世を怨む憎悪の念が萎えた心の中を這い回っていった。
その卑しい念はあどけない娘の寝顔を見るときに一層増幅して私を驚かせた。この子だけは絶対に死なせない。絶対に死なせるわけにはいかない。憎しみが残された娘を思う私の親心を食い尽くしていく中で、娘を思う父親としての本能が怒りの炎を上げた。そして私を狂わせた物に呪いの言葉を吐かせつづけた。
そもそも妻が私と娘を捨てて蒸発したのも、我が家にあの忌々しい猫がやってきたのが原因だ。アイツさえいなければ、私は体調を崩すこともなく、妻や娘を養っていくことができたのに。すべての原因はあの猫にある。
妻が蒸発する少し前から、アイツの行動に異常を感じていた。狂ったように私たちの寝室の壁に爪を立て、ガリガリガリガリほじくり返そうとするあの姿は正気の沙汰ではなかった。
アイツは確実に私たち親子を狙っている。真っ先に狙いを定めたのは幼い娘だろう。娘はまだ小さい。そんな娘に襲いかかり、乱暴に爪を立て、そして喉元にがぶりと齧り付くつもりだったのだろうが、そうはさせるものか! 絶対にこの子だけは守ってみせる!
アイツも少しは知恵がついてきたらしく、私が病に伏していることに気づいたようだ。娘を弄んだ後、ゆっくりと自由の利かない痩せ細った私をオモチャにするつもりなんだろう。そうなる前にこっちから先制攻撃してやろう。
私は許さない!
私から平和を奪い取ったあの猫を。
どれくらい深い眠りに就いていたのかわからない。私は身体を激しく揺さぶられているような感触に目を覚ました。
「おい! しっかりしろ! 今すぐここから助けだしてやるからな!」
薄っすらとぼやけて、仲間たちの姿が見えた。
「おまえを助けるために皆んなきたんだ」
誰かの声の合間に、他の誰かが涙を啜っている音が聞こえた。一体どうしたことだろう?助け出すとはどういうことだ?私は皆目見当がつかなかった。だが猫嫌いの友人たちがわざわざ家まで訪ねてくれたことが何より嬉しかった。
「どうも有り難う。よくきてくれたね。何分こんな身体なものだから、お茶すらもいれてやれないんだ。許してくれ。こんな自分が惨めで情けないよ」
私はやるせなかった。
「おい! そんなことはどうでもいいんだよ。早くここから出るんだ。しかし、よくそんな身体で今まで生きていられたなぁ」
仲間たちの同情が惨めでとても辛い。
「もうこの数ヶ月、ほとんど食べられないでいたんでね。食欲がなくて、娘もここ何日も何も食べていないんだ」
私はすぐ傍で眠っている娘の頭を撫でてやろうと手を伸ばした。しかし、娘はどうしたことか、手が届く範囲には見つからなかった。
「残念だったな」
仲間が涙を浮かべて呟いた。私には何が残念なのか理解できない。
「娘さん、亡くなってたよ。君と同じくらい痩せ細って。餓死だ」
私は仲間の言葉が理解できなかった。この男は私を起こすなり意味不明なことばかり口にする。私はそっと瞼を閉じた。これはまだ夢なんじゃないのか? 夢に現れた仲間たちは私をここから助け出すだの、娘が餓死しただのと奇妙な事ばかりいう。
「これは悪い夢なんだね」
私は呟いた。
現実の地獄から回避された夢の中にいながら、私は目覚めたときの感覚で物事を考えることができていた。そんな自分に気づいたとき、思わず私は微笑まずにはいられなかった。そんなとき、仲間たちのひそひそと話している声が聞こえてきた。
「ダメだ。頭をやられてる。幻覚を追いかけてるよ」
「この状況だからそうなるのも仕方ないさ」
「兎に角急ごう! 他の連中がおとりになっているうちに」
「そうだな。じゃあ、持ち上げるぞ」
せーのっ!
大きな掛け声とともに私の身体がふわりと宙に浮いた。仲間たちが軽々と私を抱え上げたらしい。これも夢、なのか?しかし夢とは思えないほどリアルな感触が皮膚を伝ってくる。
寝室を出たとき、猫が死にもの狂いで家の中を逃げ回っている音が聞こえた。他の仲間たちに追いかけられているのだろう。暗闇の中を慌てて逃げるものだから、部屋のあちこちで頭や身体をぶつける音がとてもやかましい。時折自動車の急ブレーキに似たうめき声も聞こえていたが、仲間たちは執拗にアイツを追い、痛めつけたのだろう。
私はアイツに哀れみは持たない。私の幸せな生活に土足で踏み込み、自由気ままに悪さをし、揚げ句の果てに私が夢に描いていた幸福に満ちた未来をも叶わぬものにしたのだから。アイツには罪がないのかもしれない。多分、そうだろう。だが、現実にアイツがそこにいるだけで、家族は崩壊してしまったのだ。仲間たちに痛めつけられながら思い知るがいい。我が家にきたことが、我が身に災難を招いたことを。
仲間たちに担がれた外に出たとき、爽やかな外気が私に微笑みかけてくれた。もう何年も外に出たことがなかったような感じがした。新鮮な空気。微風が体毛を撫でながら通り過ぎていくのが、これほど気持ちよいものだとは思わなかった。
私は猫の体臭が立ち込める地獄から解放されたことに大いに喜びを感じていた。それにしても、仲間たちはなぜ私一人を外に連れ出したのだろう。私一人を助けるのはどう考えてもおかしい。娘は?あの子が一緒でなければ私は何処にも行けない。
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