「はーい」
暗い店の奥のほうから、微かに声が聞こえたような気がした。井上の心にパッと光が射し、天使が乱舞するのを感じた。
よかったぁ、ちゃんとやってたよ!
「御免下さい! 本日予約を入れていた者ですが」
井上は耳を澄まして返事が返ってくるのを待った。すると今度はすぐに店の奥のほうから、
「すんません! ちょっと今、手が放せんもんですけん、ちょっと待ってもらえますか!」
南予独特の強い訛りで温かみのある女の声が返ってきた。
フゥーッ! 一時はどうなることかと思ったぜ。
井上は胸を撫で下ろして身体を店内に入れた。
入口の引き戸に凭れて待つこと一分。
「ああ、すんませんねぇ! お待たせしました! お連れさんらは表で待っとられるんですかねぇ?」
濡れた手をタオルで拭きながら40代前半の色白の痩せた女が店の奥から姿を現した。感じの良さそうな田舎のおばさんだった。井上はその女を見て思った。先日電話に出たのはこの人だったのか。
「ええ。車を停めたいんですけど、駐車場はどちらですか?」
店の女は駐車場の場所を井上に知らせると、店内の蛍光灯に明かりを点けていそいそと店の奥へと引っ込んで行った。井上はドライバーたちに駐車場の場所を知らせると、残りの連中と店の前で待機した。程なくして車を停めたドライバーたちが無枯荘に返ってきた。
波の砕け散る音と引き潮の音が交互に村里に轟く。沖から吹き込む風は東の山に跳ね返り、南北にそそり立った崖に反響して獣の唸り声のような異様な音を立てた。部員の誰もが轟音が鳴り響く隔離されたその空間に、忌み知れぬ不快感を覚えた。誰もが不安を表情に浮かべて辺りを警戒するかのように見渡している。無枯村の暗さが部員たちの心にしまい込んだ不安を触発したそのとき、絶妙なタイミングでキッキッキッキッキィーッ! と鳴き声が僅かに見える空を素早く横切って木々の枝々を揺るがした。誰もが驚き、肩をびくつかせた。女性部員の中から、キャーッ! と空を駆けめぐった奇声よりも高い悲鳴が上がった。よく見ると悲鳴を上げたのは向井由香だった。
「何だよ。ビックリさせんじゃねえよ」
井上は女子部員たちに囲まれて介抱される由香を睨み付けながら、誰にも聞こえないように言葉を吐いた。
可愛子振ってんじゃねえぞ!
由香は口元をハンカチで押さえていたものの、その目は好奇心旺盛な輝きを放っていた。
「鳥かなぁ?」
「いや、猿じゃないか?」
「こんなところに野性の猿なんていんのかよ?」
「じゃあ、やっぱ鳥じゃない?」
などと一年生たちは皆んな思い思いに姿なき雄叫びの主の詮索に追われている。皆んな空手の合宿ということを完全に忘れていた。
「おーい! 皆んな中へ入るぞ!」
大沢は奇妙な雄叫びも一年生たちもお構いなしだった。
「押忍!」
部員たちが一斉に応えた。大沢を先頭に入口の敷居を一人一人跨ぐ。店の土間を通り抜けて大人の膝の高さ程の床にぶち当たったところで、靴を脱いで揃える。床に上がったすぐ脇に階段があって、女が二階に上がるように促した。
「ようお越し下さいました。さあさあ、どうぞどうぞお上がり下さい。お部屋の用意は整っとりますから」
さっきの女が笑顔で部屋を案内してくれたが、井上にはどことなく女のもてなす仕種にぎこちなさを感じた。
この人、あんまり客を相手にしたことないんじゃないかな? こんなとこにやってくる人なんてなさそうだから。
部員たちは女に案内されるままに細くて急勾配の階段を昇っていった。二階に上がると洗面所とトイレがすぐに目に入った。階段を上がった踊り場を起点に、縦横にL字型に廊下が走っている。歩けばギィーギィー鳴り響く板張りの廊下と使用する部屋には既に明かりが灯されていた。二階は一階よりも明るく、外から陽が射し込むからだと思ったのは照明のせいだった。昼間の薄明かりの中に灯された廊下の裸電球の明かりは心もとない。この後、日が落ちて辺りが暗闇に包まれたなら明りは増すのだろう。そう思ったものの、この薄気味悪い古屋にはもう少し強力な明かりが欲しいと思った。
合宿に用意された部屋は二階の六部屋だった。無枯荘は一階が商店と店主らの家を兼ねており、二階が民宿になっていた。二階には一二畳の古い和室が七部屋あり、廊下に沿ってそれぞれ三部屋と四部屋に分けられ、L字の角に階段と洗面所、トイレがあった。商店の真上に三部屋が南北に連なり、それぞれの部屋は東側に大きな古い窓が設けられていた。窓にはガラスはなく、雨戸と障子という今時珍しいものだった。一方、残りの四部屋は北側に東西に並び、ここも同じく大きな古い窓が北側に設けられていた。どの部屋も窓の向こうは通りに面していたが日当たりは悪かった。
東に面した三部屋並んだ真ん中の部屋は、使えないように観音開きの扉が数枚の大きな分厚い木の板で封鎖されていた。その部屋は見るからに不気味な雰囲気を漂わせていた。近づいてよく確かめてみると、観音開きの扉に打ち付けられた板は変色してかなり古く、打ち付けた太い釘も同様に錆びが板に染み入るほど腐っていた。どうやら相当昔からこの部屋は客間として使われてないようだった。それにしても不気味だった。どうして三部屋の真ん中の部屋が使えないように扉が打ち付けられているのだろう? 部員たちの誰もがその部屋の異様な雰囲気におどろおどろしい想像を働かせた。
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