無枯村からの帰りの車の中で、井上は民宿の主人が最後に言った言葉の意味を考えていた。
「この村を出るときは必ず、足の汚れを祓橋で禊川に漬けて祓い落として下さい! 絶対に車に乗ったまんま、素通りせんようにお願いします。お客さんらは私らの村の言い伝えを信用せんかもしれませんが、万が一のことが起こったらいけませんので。手間ですが必ず足を禊川で清めてからいんで下さい!」
引き上げることを民宿の主人に告げたのは主将の大沢だった。大沢は先日、民宿の女が井上に涙目で語った客の退却のときに見せる態度そのままに、激しい剣幕で迫り寄り、荒々しい言葉の数々を俯いたまま黙りこくる主人と女に浴びせかけた。その様子を部員たちは全員で取り囲むように見ていたが、井上には主人と女の耐える姿に胸を締め付けられる思いだった。井上同様にお化けの被害に遇わなかった佐々木と横山の心中も複雑だった。部員たちの中には主将の影に身を潜めて、野次を飛ばす者も少なくなかった。井上は野次を面白がって飛ばす後輩たちに、厳しい視線を向けて黙らせたが、主将の大沢には抵抗することはできなかった。
無枯荘の女はうなだれて俯き、ポタポタと頬を伝って涙を零していた。主人はただ何度も何度も頭を下げては「申し訳ございません」と繰り返すだけだった。大沢に辛辣な言葉の暴力を受けているあいだ、主人と女の心には何が去来していたのだろう。それを思うと井上は言葉を失った人形のように黙るしかなく、他にその場をやり過ごす方法は見つからなかった。主人も女も悔しい気持ちで一杯だったにちがいない。しかし飽くまでも客商売なのだ。いくら無礼な態度で責められようとも、心に吹き出した感情を露にしてそれを客にぶつけることなど決してしてはならないことだった。主人と女は耐えていた。その姿に井上は自分の空手を通じて得た忍耐力が、想像以上に未熟で方向性が間違っていたことを気づかされたのである。その想いは佐々木や横山も同じだった。
大沢は苛立った気持ちをすべてぶつけると、礼も告げずにさっさと車に乗り込んでしまった。他の部員たちも大沢につづいて、次々と車に乗り込もうとした。そのとき、主人が善意の気持ちを満面に浮かべて無枯村を出るときの作法を伝えたのだが、ほとんどの者はそれに耳を傾けることはなかった。井上は部員が車に乗り込む後ろ姿に腹立たしさを覚えながら、宿代を支払っていた。部員たちが立ち去った無枯商店に主人と女、そして井上と佐々木、横山の五人が残っていた。そのとき主人の目尻から蛍光灯の微かな光を反射する液体が頬を伝って流れ落ちた。
「旦那さん、気を悪くされないで下さいね。あの人はどこに行ってもああなんですから。必ず何か文句をいって無礼を働くんです。ここに限ったことじゃありませんから。本当に美味しい料理でもてなしてくれたことは感謝してますよ。他の連中は幽霊見たっていいましたけど、俺たちはそんな物全然見ていないし、感じもしなかったんですから。昨晩は旦那さんと奥さんの拵えて下さった美味い料理で満腹になり、そのままぐっすり眠って今日はすこぶる快調でしたからねぇ」
横山が主人と女を気づかって慰めの言葉を掛けたが、もし横山がそうしなくても他の二人のどちらかがそうしたにちがいないと井上を思った。横山の言葉に少しは救われたのか、主人と女の顔に笑みが戻った。
「そういって下さると助かります。なんかこういうと変ですが、またお客さんらにいらん心配を掛けさしてしまいました。ほんとにお詫びします」
「そんな、結構ですよ。俺たちは申し分ないもてなしに満足してるんですから」
佐々木が言った。
「私にはわからんのです。本当に私ら夫婦はそんなお化けに遇うたことがないんで全然わからんのです。客間で何度か寝たこともありますが、お化けは一度も出ませんでした。でも、お客さんは確かに出たいうとりますからねぇ。私らには見えんお化けがおったんかもしれません」
主人は弱々しい声で言った。
「俺たちの部屋には御札が貼ってなかったけど、貼り忘れたんですか?」
井上は思い出して訊ねた。
「いえ、貼り忘れたわけじゃないんです。なんでかようわからんのですけどね、なんぼ貼っても糊が着かんのですよ。多分あの部屋の湿度や壁の関係やと思うんですが。それで代わりに掛け軸に御札の柄を写して描いてもろとんです。じゃけんあの部屋もちゃんと御札はあったんですよ」
「そうだったんですか」
三人が揃って同じ言葉を返して、口を開けたまま主人を見つめた。
「お客さん、私がいうたことは必ず守って下さいよ。万が一のことが起こったら命取りになりますけん。深い意味は考えんかってええですから、この村で憑いた諸々の汚れを川で流してからいんで下さい」
主人は三人の顔を一人一人凝視して言った。その迫る表情の裏には、何かとんでもない不気味な物の蠢きがあるように思えた。
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