無枯村へと通じる細い道を走ること約一時間ようやく村が見えてきた。井上たちは祓橋の手前の広場に車を停めると、外に出て後続車を誘導して次々に停車させていった。すぐさま、家族の者は三人の指示に従って苦しみ暴れる我が子を車から引き擦り出しはじめた。
深さ10センチにも満たない禊川の流れは緩やかだった。以前訪れたとき同様に、昼間にも関わらず上を見上げても青空を確認することはできなかった。禊川は透明感を見せる以上に闇の黒さを映し出していた。辺りを覆う木々が微かに揺らいでいるようにも感じられたが、不思議なくらい風はなかった。
三人はなかなか車内から出ようとしない部員たちを家族の方々と一緒に無理やり引っ張り出そうとした。そのとき見えた部員たちは、既に三人が知っている彼らではなかった。部員たちのその変貌した姿に一々驚いている暇はなかった。触れた彼らの肉体は筋肉の張りのある弾力を感じることはなかった。意味不明な言葉を発しながら、怯える部員たちは、干からびた干物のようにごつごつして骨が皮膚を突き破るのではないかと思われるほど痛々しく痩せ細っていた。
抵抗をつづける部員たちは何を恐れているのか、車から降りることを頑に拒みつづけた。痩せ細った身体に似合わず、力は思いの外強い。家族の中には暴れまくる部員たちに殴られ蹴られしながらも、抱え上げて乱暴に禊川に投げ込む者もいた。そんな中に加藤の両親の姿もあった。
「健! これで元の身体に戻れるからな!」
禊川で加藤に覆い被さる父親の声が響いた。
「健ちゃん! よく頑張ったわねぇ!」
泣きながら息子の無事を祈る加藤の母親の声も聞こえる。
井上たち三人はまだ抵抗して車から出てこない部員たちの許に急いだ。必死になって車から引き擦り出そうと試みる三人には、部員たちの発しつづける言葉に気を取られることはなかった。のた打ち回る部員たちは皆一様に同じような言葉を発していた。
「ゴメンよ! 皆を連れて行ってあげようと頑張ったのに、もう力が入らない。誰かがお父さんを身削ぎの水で流そうとしているんだ! もうお父さんの力ではどうにもできない」
〈わしらも流されるん?〉
「このままお父さんと一緒だと皆も流されてしまう」
〈もう、向こう岸には行けんの?〉
「行けない」
〈僕らまた村に閉じ込められるん?〉
「ゴメンよ。身削ぎの水で流されればもうどこにも帰れないくなるんだ」
〈観音様はわしらを向こう岸に連れてってくれんの?〉
「身削ぎの水で身体の肉を削がれたらもう向こう岸には渡れなくなるんだよ」
〈私ら、どうなるん?〉
「誰にも救ってもらえないところに流されるんだ」
〈観音様でも身を削いだわしらを救うことはできんの?〉
「救いを求める祈りの声を観音様が気づいて下されば救われるかもしれない。でも肉を削がれ口をなくしてしまえば、祈りを声にすることもできなくなる」
〈観音様は音のないわしらの祈りの声には気づいてくれんの?〉
「わからない。それは観世音菩薩様でも見えない音かもしれないから…」
〈これから流されて行くとこはあの村よりも嫌なとこなん?〉
「あの村よりもずっと辛く苦しいところだろうな…」
〈ほんならまだ村に戻るほうがええん?〉
「うん。村に帰るかい? 今ならまだ間に合うよ」
〈私らが村に帰ったら、お父ちゃんとはもう逢えんのやろ?〉
「お父さんは遠くに流されてしまうからね…。皆はお父さんと行くよりは村に戻って、誰かまた救ってくれる人が現れるのを待ったほうがいいのかもしれないね」
〈あの村で待つん?〉
「そのほうがいい! お父さんと一緒だったら、もう誰にも救われなくなる! 観音様のお導きも叶わなくなる!」
〈ほんなら村に帰る!〉
「ぐずぐずしてるとお父さんと一緒に身削ぎの水で流されてしまうよ! 皆、お父さんが身削ぎの水に入った瞬間に一斉に村に渡るんだよ。お父さんを架け橋に、素早く村に飛び移るんだ。身削ぎの水に触れた瞬間に粉々に流されてしまうからね! さあ、用意はいいね!」
〈うん!〉
「必ず新しいお父さんが皆をこの村から連れだし、今度こそ向こう岸に導いてくれるからね。必ず観音様の許に連れて行ってもらえるから、大人しく待っているんだよ! いいね」
〈うん!〉
部員たちは大勢の子供たちと会話をしているようだったが、井上たちや家族の者たちには子供たちの姿は見えなかった。部員たち全員が禊川に漬けられたのは、到着して30分が過ぎようとした頃だった。そのとき突然禊川に沿って生い茂る薮の中から、ガサガサガサガサガサッ! と蛇が走るような不気味な音を立てて何かが凄い勢いで駆けていった。そしてそれを機に今まで静かだった闇がざわめきはじめた。木々は大小にかかわらず大きく揺らぎ、突風が禊川を上流へと追いやる勢いで川下から吹き込んできた。
「おい! なんだこれは! 川が、川の流れが逆流してるぞ!」
禊ぎ川で清めていた家族の一人がその不可思議な光景に驚愕の声を挙げた。一同はその異様な現象にしばし茫然と言葉を失って様子を見ていた。川下から突如舞い込んだ風は次第に大きな突風となって禊川の水を逆流させ、川面の水を弾いて削ぎ取るように上流へ押し上げていった。突風により川の両脇に弾けた水は水の壁となり、まるで川を囲む透明の壁のように上流までつづいた。
「ど、どうなってんだ! 何が起こってるんだっ!」
車を停車させた場所からその光景を見ていた井上は、動揺を抑え切れず思わず声を上げた。
「汚れを祓っているんだ!」
佐々木が叫んだ。そして佐々木の視線の先にある水の壁は次第に高くなっていった。
「井上! 写真を早く川に投げ込め! 水が涸れてしまうぞ!」
横山の叫び声に、井上は急いで写真の束とメモリカードが入った紙袋を車から引っ張り出した。井上は川に駆け寄り、紙袋ごと禊川に投げ込んだ。そのとき三人の目にははっきりと見えた。写真から無数の手が伸びるのを。その手は苦しみ喘いでいるようだった。
ヒィーッ!
同時に男女の入り乱れた唸り声が辺りに轟いた。
「霊が清められたんだ」
井上は茫然と立ち竦んでその光景を見ていた。脱力感と安堵感の両方で井上はふらふらになった。
部員たちは逆流する禊川の中でうずくまっていた。変わり果てた部員たちの顔色に変化は見られない。しかし、三人にはこれで皆が救われたという確信があった。涸れゆく流れの中で、部員たちは水の壁で閉じ込められているようにも見えた。あの水の壁に汚れは閉じ込められ、身を削ぎ落とされていくのだろう。井上にはそう思えた。
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