科学が発達していなかった大昔から、あの川で洗えばいいことはわかっていた。昔の人間は老化させる物がウイルスとは知らなかったから、何故あの川で洗えば平気なのかという確固たる理由はわからなかったんです。わからないから迷信に結び付けて、村に残して習わしとして受け継がせたんです。でも、科学が発達した現代に至っては、原因究明は必至でしょう。お手紙にもあったように、病院で精密検査をしても原因がわからなかった。だからといって祟りだと短絡的な結論に至るのは、事実が見えていないってことですよ。
恐らくその細菌はこの村にしかいない新種なんです。だから今の現代医学でもまだその処方が掴めていないだけなんです。あの川の成分検査をすれば治療薬も作られるはずです。環境の変化に伴う細菌の突然変移が、宿となった人の身体から栄養を過剰に奪い取った。ただそれだけのことだったんです」
井上は一連の現象を辿る中で至った自分勝手な推測を話し終わった。
「お客さんがそれで満足するんやったらそれでかまいません」
主人は肩を落として言った。井上に向けられた主人の顔には呆れている様子が見られた。
「迷信に縛られては駄目です! 今もいいましたが、すべて科学的に解明されるんですよ。科学はもう迷信を確信へと変えるところまできているんですから!」
「わしはこの村で生まれ、あの事故が起こるまで住んどりました。しかし、この家で幽霊を見たとか気配を感じたという話は聞いたことはありません」
「はい。ここにはそんなものはいませんからね!」
「しかし、これだけはいえるんです。そこに祀られとる憑坐は、あれだけはお客さんが話してくれたような科学で解明できるもんとはちがうと!」
「ヨリマシが何なのか知りませんが、ご主人はそんなに怖がる必要はないんです! 必ずそれも科学的に証明されるはずですから」
主人は断固として井上の考えを聞き入れようとはしなかった。
「これは家内にもいうとらんことです。わしの家系は憑坐を守るのが昔からの役目やったんです。これは家内も知っとることです。でも本当の役目は開いた扉を、絶対に中から開かんように板で封鎖するのが役目やったんです。憑坐が動きだしたら誰にも止められんのです。
50年に一度憑坐は乗り移る相手を変えるんです。わしらはその新しく乗り移った憑坐が、あの部屋から出て悪させんように扉を板で打ちつけたんです。扉が開くと憑坐は新しい身体を求めますんでな。一旦捕まったらもう絶対に逃げられません! これはわしのオジイから聞いた話ですが、憑坐が新しい身体を選らんどるあいだは、わしらのようにお役目を持った家の者はすべての儀式が終わるまで、自分の意志では身体を動かせんようになるそうです。恐らく憑坐に身体を操られてしまうんじゃろというとりました。
憑坐を納めるときは選ばれた限られた人だけじゃないといかんのです。憑坐が気を悪して、怒らさんようにするためにです。一度怒らせたら誰にもそれは抑えられせん。そこらにおる者は多分皆んな命取られるか、もうまともには生きられんじゃろ」
主人の目は真剣だった。井上はその目に自分が力説した持論をもっても拭いさることのできない心の呪縛があることを知った。
「もう話はええけん、あんたは早よお逃げなさい! あの板が外される前にここから立ち去るんじゃ! ぐずぐずしとったら憑坐に移られるぜぇ! 板を外した人らはもう駄目じゃ。憑坐の扉が開いたら、わしら夫婦も恐らくオジイがいうたようになんもできんようにならい。もうまぁ開くでぇ。開いてしもたら、わしはあんたを助けられんようになる。まだわしの身体がまともな内に、ここから早よ逃げなさい!」
井上は主人の鬼気迫る訴えに全身に鳥肌を立てていた。
「そ、そういわれましても表は土砂が」
「土砂よりももっと恐ろしいことがこれから起こるいいよんんじゃ! 表に出たらなんとかなります! 一刻も早よここから逃げな、本当に取り返しのつかんことになるぜぇ! お客さん! あんた、もう家に帰れんようになってもええんかな!」
なんとも言えない筋肉の硬直感が井上の全身を包んだ。
民宿の主人がそこまで恐れるヨリマシって一体何なんだ! まるで生き物のような話し振りだ。得体が知れないだけに、心臓が引き裂かれるような怖さを感じる。不安は消えることなくどこまでも追いかけてきて、逃げ場のない緊張感が全身に走るのが気持ち悪い。
「あ、あの、ヨリマシって一体何なんです?」
顎が震えて思うように声にならないのが、井上には恐かった。井上の掌は汗でまみれていた。そして何かに頭が締めつけられるような痛みも感じられた。
一体どうなってんだ俺の身体は? 身体が思うように動かない。あのときお寺で腰を抜かしたときは、まだ反射神経は有効だったけど、今はそれすらも停止しているみたいだ。
「憑坐はの、霊媒に使う子供や、人形じゃ! 今ここにおるんは子供に似せた人形じゃ! 災いが村を襲ったときに、昔からここでは物の怪を憑坐に移して、村の災いを治めさせる儀式が執り行われとったんじゃ!」
そう主人が叫んだ瞬間、井上は主人に腕を凄い勢いで強く引っ張られて階段の下に突き落とされてしまった。井上は階段からけたたましく転げ落ちて土間まで転がり、水が噴出す入口のドアの敷居に頭をぶつけてようやく止まったが、同時にそのまま意識を失って伸びてしまった。
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